因果応報。中たるには中たる理由があり、中たらないにはそれなりの理由がある。必中条件として工夫された射技射法は、歴史的に各流派さまざまで、正射とは決して一つの射法をさすものではない。共通するのは、「正射必中」と謂われるごとく「中たる理にあった射法」であり、または、「正射は必中に至る」と解してこれを修練の課題とし、「貫中久」(鋭い中たりが常にある)の実現をめざすべきなのでしょう。

 日弓連教本では「弓道は的中至上主義でない」ことを明記していますが、中たらなくてもいいとは言ってない。正射の究極目的、行き着く先は中たりです。ただ、修練の過程で、あたりをめざすあまり、誤った射法(はやけ、ゆるみ、我流)に堕ちることを戒める言葉と解すべきです。

 教本第一巻には、初級者から高段者まで共通する射の理念から射技全般が述べられている。教える側と学ぶ側、双方共通のベースとなる点では有意義であるが、皆が教本通りの射技をマスターすることはできず、めざす目標も違う。経験年数や修練の度合いによって、できることできないことがあり、また、加齢や身体条件等によって、会得したことができなくなることさえある。

 したがって、ほとんどすべての弓道人は各自の射に悩みをもつ。弓道修練の過程で、射技の一つ一つについて試行錯誤は必要であり、「なぜそうするのか」という理由を考えることも重要だ。一人で解決つかない迷いは、誰かに教えを乞うてみよう。複数の指導者に教えを乞うことも必要である。たぶん、一つの技術に対して、千差万別な答えがあって驚くだろう。 もし、指導者が替わる毎にその射法を矯められるとすれば、指導を受ける射手こそ悲劇といえよう。

 即ち、弓道にはそれだけ多くの正射があるといえるのかも知れない。したがって、教えを乞う前に「教えたがる」先生、「俺の射が絶対正しい」と語る手合いに組みすべきではなかろう。時として、指導者自身が「射の理」を考えず、「教本(第1巻)に書いてあるから」と、学ぶ側の段階や、体力・体格等の条件に不適な技術を強要することがある。

 教本のみを唯一至上のドグマとして信奉する師匠の下では、上達は望み得ない。納得がいかない時は、「なぜそうするのか」をまず自分で考え、それから謙虚な姿勢で尋ねてみよう。自分のめざす射がみえてきた段階では、それを具現化している師匠に師事するのが理想であろう。 
師弟関係と教本の読み方
 さる高名な射手が、弓道には、「スポーツ弓道」、「正射と真善美をめざす弓道」、そして「カルチャー弓道」と謂えるものありと語っている。確かに、人によって弓道に求める目的は違いましょう。しかし、弓射における「中たる理」は、誰にも共通する力学的事象である。

 今日の弓道と他のスボーツとが異なる点は、目的を達するための手法にある。近代スポーツにおける、より合理的にテクニックと反射神経を養うトレーニング法とは対照的に、弓道人はなぜ、的中にとっては必ずしも最重要ファクターとはいえない「会」と戦うのか?

 誰にも否定できないことは、果断なく伸びあう「静中動」の会から生じる、「一瞬の離れ」は美しく、まさに射の醍醐味である。貫中久を確実ならしめるには、果断なく伸びあうことと引き分けの限界で生じる鋭い離れが必須であって、そのため深い会によって自満を期することには重要な意義がある。
正射とは? 弓道修練とは?