しかし、さる先生が弓道誌上で「会」におけるイメージを語るごとく、自虐的に会の時間的長さを競うことに、いかなる意義があるのか。そのことによって、腱腕の障碍を起こす射手の弊害や如何? 私事ながら、30年の弓歴を通じて、肩や肘に多くの障碍を発した。

 純スポーツの観点からみれば、「射は立禅」の理念は非合理に満ちている。しかし、そのような射をめざす修練には、量・質とも他のスポーツを超えた厳しさがある。では、それこそがカルチャー弓道では悟り得ない、正射に至る唯一の過程だろうか?

 弓道は「立禅」と言われる。正射とは、禅的体験を通してのみ「弓射の美を感知」し、会得する過程なのか? 大射道教を唱えた弓聖阿波研造先生の、「一射絶命」の境地として語られる究極的正射とは、体験を通じて感知する以外にないのか? 的中を追い求め、より自己の体力と弓具に力学的考察を加える修練から、正射は生まれ得ないのか?

 
 
 国際化された他の武道やスポーツにおいては、かつての精神論的鍛錬法から、科学的アプローチに重きをおいたトレーニングへと大きく変化している。むろん基本フォームはあるが、個人の技術・体力・体型に応じたフォームの改変は、むしろ積極的に是とする。

 一方、現在弓道においては教条主義が跋扈している。全ての弓道人の射型を、教本第一巻の射型画に合わそうとすることである。教本創刊にあたられた当時の、射法制定委員の先達も予想しなかったに違いない。日本近代化のキーワードが、「緩和」に象徴されるとするならば、現在弓道は最もその対極にあるようだ。

  指導者が、初心者に対して「引き過ぎだ、もっと勝ち手を押さえなさい」と。静的な射型像にこだわるあまり、内的な動、伸びへの発動を押さえている! 短期間に中たりを求められる学生弓道で、「教本の画像」に則る「正射」が求められるのはなぜか? (静止した)教本画像に近づこうとする指導者自身の射たるや、「弱い離れ」(「軽い」に非ず)である。「精一杯引け!もっと伸びよ!」が初心者への「正射」の助言であろう。

 驚くべきは、このような風潮は今に始まったことではないようだ。阿波範士(1939年没)ですら、各流派射法統一にはシニックな姿勢をとりながらも、人前では統一射法に変えられたという事実を、直接教えを受けた方から聞いた。究極の正射を求めた弓聖ですら、こんなエピソードが残っていた。即ち、誤った規制は正射に至る道を阻害することがあり、ましてや自己の修練を放棄して本質に迫ることなく、安易に教本(の一部分)にすがる指導姿勢は否定されるべきであろう。

 弓道の近代化においても同様、「力学的に合理的な射」を求め、そして「合理的なものは美しい」と考えるべきであろう。射の合理性を追求することは、まさに現代の正射への道であり、それはたぶん「立禅」の理念にも近づくものであるような気がする。

 力学的に合理的な中たる射の追求こそ、美しい射、正射に行きつくことはではないか?的中にとって会の深さとは、どんな意味があるのか? より短時間で、同じ伸びあいと詰めあいのレベルを達成できないのか?

 
会は静にあらず発を孕む(教本絵図は動かない)