射道は悟道也。弓を習うことは自己を習うこと。自己を習うことは自己を忘るること。自己を忘れて献身一如。己を射る弓。弓は心を引くのである。一心とは無限なり。即ち一念。二念は邪なり。心で引く。即ちその柔らかい心を無限無発に一射絶命三昧たるべし。

 大正から昭和初期、弓聖と仰がれた阿波研造範士の語る弓射の究極は、一射絶命、無発の射に行きつくことである。弓聖は「射道短言集」の中で上記のように記している。これを読んで悟った。妄想に悩む現代の弓道人には絶望しかないと。妥協策として、多くの高段射手を見取り稽古しつつ、可能な正射を求めることを考えた。



 
 足踏みは、開脚した両肢のひかがみを張り、力まず上半身を伸びやかに立つ。取り懸けでは上体を反らさず、肩根を前側方にやや膨らむ気持ちで押し出し、懐を深くして静かにすくい上げるように打ち起こす。差し伸べた両腕は、静かに前方で半孤で描き、的を注視しつつ、気合いをはらんだゆるやかな息合い(吸気一息)で、大三へと引分ける(注1)
 
 大三では押手肩が浮上がらぬよう、肩根をしっかり据える。この時、もはや手の内にこだわる意識はなく(注2)押手の下筋(上腕三頭筋・三頭長筋)を張り、手先の力を抜く。勝手は手首から肘までが自然に反ってしなり、そのしなりの延長線上の軌跡を、押手と等しい力で肘で引分けて行く(反り橋)。体全体が、弓の間に入っていくような気持ちで押し開くように……。

 五体がたおやかに伸び続け、両肢底が床に根生える。押手は次第に手の内が締まりつつ的に向かってどこまでも押し、勝手はどこまでも後方へ……(注3息絶えるほどに呼気を引き伸し、押手肩に食い込んでくる弓の重圧に耐えながら、ただひたすら矢束を引き伸ばす。手の内が次第に締り、腰椎が伸び立つ。矢摺藤の左側で半分割された霞的が、間近に浮き上がって制止する。瞬くこともなく呼気が尽き、最後の呼気一息とともに鋭く弦音して離れる(注4)

 かつて体調万全の五段受審の頃、このイメージが可能でした。平均的中率は80%±15程度でした。その後、肘や押手肩の障碍を起こしてから、会と詰めあいに迷って射は乱れ、このイメージで引けなくなっています。
 
 注1)矢こぼれについて
 この時、勝手を軽く内側に捻ねって矢を支える。捻ねる軸となるのは、拇指である。手首を捻るのは誤りである。捻ねるというより、「勝手の手の内」には力を加えることなく、拇指を軸として肘を軽く吊り上げるように上腕全体を手前におおいかぶせる動きである。これ以降、打ち起こし、大三から引分けの運行において、手首や勝手の手の内を捻ることは不要である。
 
 番えた矢は、弓の右側に接して押手の指に乗っているだけである。手首を捻ねると、取りかけた「勝手の手の内」自体が捻れ、帽子を押さえた指の腹で矢筈周辺に力が加わる。「弦を曲げるようにねじって下弦を引く」と説明するのは誤りである。引分けで、このような意識的な捻りを加えると、上記の理由で矢こぼれ、又は「のじない」が生じる。「下弦を引く」とは、矢筋に伸びあって引分ける感覚をさしており、先に述べた勝手全体を働かせることである。
 
 初心者は、引分けるにしたがって指先に力が入る。この結果、更に矢筈に力が加わって、矢こぼれや、筈が支点となって矢先が浮きあがって矢口が開く。矢こぼれや脇正面方向への危険な暴発の原因ともなる。