読者と称する方から、私のHPの射技に関して根拠のない話だろうという誹謗がありました。やむを得ずマル秘画像を公開、「射技と的中」の項で述べた内容を自分なりに求めた姿の紹介です。撮影は1989年頃か、同年春秋、四段・五段位をいただいた頃で、東北・北海道の都市対抗戦のシーンです。後方は日弓連指導範士の野呂先生です。ほとんどが教士の間に交じって一人四段だったか?
知らぬ間に師匠が私の射を撮影していて、あとでいただきました。一枚ずつフィルム撮影で、連写ではありません。打起の一枚は省略し、大三、会、離れ、残身です。原画が旧い大名刺判で、スキャンしていますから画像の劣化もありますが、離れの一瞬を捉えた珍しい3枚目の画像を拡大しました。よく見ると離れで最初に手下が跳ね上がり、既に弓の別れは過ぎても尚、矢は残っています。
的中に関与する最大のファクターは押し手にあり、現代弓道の正射型としては、「押手肩沈め、上腕下筋を張り虎口まで押せ」となる。弓を押す力を直線的に最大として弓力を活かし、角見の働きによる弓返りによって弦と矢の離れを遅らせ、矢速を高める射型として最上の「拳の別れ」をめざしました。
会が引きすぎ傾向にも見え、その指摘も受けましたが、「勝手肘は肩後方に引納め」、「矢束いっぱい矢筋に伸合って的付け」を意識し、引き分けた矢束を最長とし、勝手の肘を引き分けの限界で安定させ、的付けの乱れを防ぎました。しかる後、「呼気一息の気合」で、ゆるみのない発(離れ)をめざしました。そのためには、「体力・筋力」が必要で、「練習量と体力強化」に務めました。
当時、フィットした弓は並寸で19.5kgですが、しかし、後年腱板断裂と関節の擦れ合う部分にネズミ軟骨ができて、以後この弓は引けません。
「矢番は筈一つ上」は、力学的理由で矢飛びに影響します。離れの弓の動きを高速度撮影すると、まず手下が跳ね上がってから収まり、矢番位置は、矢擦藤下端と水平な弦位置より矢の太さ1本分上に弓力が最大に働く力点があり、握りを支点として跳ね上がる反動は最小となる。これが離れの瞬間で確認できます。