1945年2月19日Dディ ビーチに向かうアメリカ軍
前方にすり鉢山が見えます。 C:National Archives
海上の戦艦から1トン砲弾が硫黄島に降り注ぎ、小さな船は艦砲の衝撃でひっくりかえり
そうでした。海軍の砲撃は午前8時57分に終わりました。
9時2分、第一波、75ミリ砲を1門搭載した装甲トラクターが波の上から硫黄島の
柔らかい黒い砂の上にドスンと乗り上げました。
上陸ゲートがあくと、皆ビーチに出ました。とても静かで敵はいないと錯覚する兵もあり
みんなはやたらに歩き回っていました。この状態は1時間ぐらい続き、沢山の兵が
小さなビーチにあふれました。
この偽りの静けさは、栗林の過激な戦略の一部でした。
日本の部隊が他の島の戦闘でやったように即座に撃ちだすのを避け、直前の砲撃で
やられたように見せかけ、攻撃部隊が集まってきてビーチがいっぱいになるまで射撃開始を待ったのです
突然、防御物が何もないアメリカ兵に島中から、迫撃砲弾や小銃弾が飛来しました。
栗林は、北にいる別働隊からの入念な十字砲火を用意していました。
砲弾はすさまじく、ジープや装甲車を粉々にして宙に吹き飛ばしました。
初日の戦闘で、アメリカ兵は陸上と海上で566名の死者をだし、1755人が負傷し、
99人が戦争神経症にかかって戦えなくなりました。
上陸後もアメリカ兵には敵の姿が見えなく、敵に損害を与えたという証拠もほとんど
見ることができないのでした。ほとんどの若者にはまだ、守備隊が硫黄島の上ではなく
中にいるということが、全長16マイルの地下通路の中を動き回っていることが
理解できないでいました。
心理的にいえば、彼らは幽霊を撃ち、幽霊に撃たれているようなものでした。
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擂鉢山山麓・海軍14糎(センチ)水平砲
重巡洋艦の副砲を擂鉢山山麓に移したもの
背後に鉄筋やベトン(コンクリート)の
残骸が残っていますが、これはこの砲が
掩堆壕に覆われていた名残です
擂鉢山・海軍14糎(センチ)水平砲
赤錆びた砲身は、今でも水平線を睨み続け
ています
摺針山・海軍14糎(センチ)水平砲
撮影
平成7年(1995年)宇野昌史
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