<じっと見守るアメリカ国民>
擂鉢山の海兵隊員たちにはわからなかったのですが、
祖国のアメリカ人たちは彼らを
見守っていました。一人のアメリカ兵の後ろには100人のアメリカ人がいました。
物資を作ったり国として節約したりした一般市民です。
硫黄島は国じゅうの新聞の一面トップ記事になっていました。
硫黄島の戦闘は第二次世界大戦でもっとも多く報道され、書かれることになりました。
日本人にはほとんど知らされませんでしたが、
ほんの数日前まで硫黄の島など聞いたこともなかったアメリカの読者たちが、自分の裏庭とおなじくらい島の輪郭になじんでいきました。ヨーロッパの戦争が終焉にむかっていたので、
記者たちはますますはげしくなってきた戦闘を記録するため、太平洋側に移ってきました。
彼らの特電が新聞にあふれ、それがぞくぞくと特集やラジオの戦況報告となりました。
映画館では強襲のニュース映画が上映され、新しいフィルムがとどくたびに日々更新されました。
歴史上初めて、ラジオ・ネットワークが銃撃戦下の生放送を流しました。
ニュースは驚くほど早く、24時間以内に戦闘の記事が載りました。
人の集まる場所では、
ふいに専門家のような口調でジョークをとばしたり、
「グリーン・ビーチ」や「スリバチ」「クリバヤシ」といった言葉をすらすら口にしたり
するようになりました。
ホランド・M・スミス将軍の厳粛な言葉
「この戦いは、我々が168年にわたっておこなってきた戦いの中で最もきびしいものだ」
や、ニューヨーク・タイムスの「海兵隊の最悪の戦闘」の記事で
ぞっとするような数字が流れ出しました
「海兵隊は現在、最悪の戦闘、まだ勝利を得られない戦闘に立ち至っている。
硫黄島攻撃の第一波はほとんど一掃された。世界でもっとも強固に防備された島での
たった二日の戦闘で、3650人の海兵隊員が死んだり、負傷したり、行方不明になったりしている。これは、タラワの全犠牲者以上であり、5ヶ月間に及ぶガダルカナルのジャングル戦での海兵隊の全犠牲者とほぼ同じだ。」と載りました。
アメリカ人はたじろぎました。
これは、アメリカの若者が第二次世界大戦での
どの場所でこうむった被害よりひどいものでした。
そんな中、
ニュースが「火山占拠−海兵隊、擂鉢山の頂に国旗掲揚」と伝えると読者は元気づけられました。しかし、「日本軍反撃−わが軍の戦闘犠牲者は5372名」
ではどんな喜びでも弱められてしまうのでした。
硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場です。
最終的に敗北する防御側が、攻撃側にここまで大きなダメージを与えたのは稀有なことであり、
米海兵隊は史上最大の苦戦を強いられました。
<戦車の例>
日本軍の戦車隊主力の97式中戦車は重量16トンで正面装甲25ミリ対戦車砲が
口径37ミリだったのに対し、アメリカ軍シャーマン戦車は、重量20トンで
正面装甲85ミリ、対戦車砲が口径75ミリで、
日本側はより性能の劣る96式軽戦車を
含めて
23両しかありませんでした。
ところが、硫黄島の戦いで、
米軍戦車は実に270両が撃破せれました。
栗林の徹底した指導による対戦車戦闘を根幹とした陣地編成と築城によるものでした。
すなはち、戦車隊は各所に掩堆壕(えんたいごう)を掘り、砲のみを突き出したトーチカ
となって待機、進撃してくる敵戦車をできる限り近くまで引きつけて砲撃し、
逆襲される前に速やかに移動し次の壕で待機するという戦法で、米軍は存在に気づいて
はいたものの、上陸するまでその位置を把握できなかったのでした。
米軍側の死傷者数2万8686名に対し、日本軍側は2万1152名。戦死者だけを見れば、米軍6821名、日本軍2万129名と日本側が多いですが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことです。
乏しい装備と寄せ集めともいえる兵隊たちを率い、これだけの戦いができたのは、
栗林の断固たる統率があったからで、敵将からの評価も高く、硫黄島上陸作戦を指揮した米軍海兵隊の
指揮官ホーランド・M・スミス中将は著書の中で
「栗林の地上配備は、第一次世界大戦にフランスで見たいずれの配備より遥かに優れ、
第二次世界大戦のドイツの配備をも凌いでいた」と書いています。
戦史に残る壮絶な戦いを指揮した軍人はまた、自宅でお勝手の隙間風が心配で仕方のない
夫であり、
その両方を生きたのが栗林という人でした。
あまりにも過酷な戦場では、怪我や飢え、渇きの中で生き延びて戦うよりも、
ひとおもいに突撃して果てたいという思いにかられるそうですが、この島では一兵たりとも無駄に死なせてはならぬと固く思い定めていて、
栗林はそれを許しませんでした。
そこにはヒューマニズムではなく、
冷徹な計算がありました。