その当時、軍人で大将に叙せられる
ということは、今の世の中では、想像を
絶するすごい人なんだそうです。
壮絶な最期を迎えるまでの、人としての魅力がたくさん備わったすばらしい人物で
ぜひ、皆さんに紹介したいと考え、今回記事とさせていただきました。


栗林はその頃53歳、日本人としては背の高い方で、身長は176センチを越え
体重は90キロ、大きな太鼓腹をしていました。世界各地を転任して軍歴30年でした。
栗林は、終戦近くの硫黄島の戦いで、5日で落ちるといわれたにもかかわらず、35日間耐え抜き硫黄島が落ちればその飛行場を使って、アメリカにとって不沈空母のごとく直接
妻、子供のいる日本本土を更なる爆撃が襲うのを少しでも遅らせたいと願ったのでしょう。
アメリカ人は何よりも人的な被害を重く見、死者数の数が多ければ、たとえ戦況が有利でも、その作戦は失敗ではないかという世論がわきあがります。アメリカで暮らしたことのあるその当時数少ない軍人栗林は、その国民性についてよく知っていました。そこまで計算して敵の死者数をじわじわ増やしていく戦い方を選びました。アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようという方向に向かうことを期待したと見られています。
当時の米国では、硫黄島の戦況を国民が固唾を呑んで見守っていました

その報道の量とスピードは、当時の日本からは想像もつかないものでした。
上陸作戦が始まった2月から翌3月にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は、硫黄島に
関する記事を60回以上掲載しています。硫黄島の戦場写真はその質においても
量においても、第二次世界大戦の他のどんな戦場をも凌駕していました。
現在の日本では知る人の少ない硫黄島の戦いが、米国では
‘‘Battle of IWO JIMA’として

語り継がれていること、また米国人の間でいまも‘‘General KURIBAYASHI’の評価が
高いそうです。

戦後、アメリカのある雑誌が、第二次世界大戦時に於ける世界の名将10人の一人として
栗林中将の名をあげました。


ではなぜ昭島歴史探訪部会で、栗林忠道中将なのかと申しますと、栗林には妻義井と愛する長男太郎、長女洋子、次女たか子の3人のお子さんがおりまして、戦後長男太郎が母義井を連れて
結婚後住居を構えたのが、昭島市朝日町でした。

長女洋子は、戦後まもなく亡くなりましたが、埼玉県に嫁いだたか子は義父の保育園を継ぎ活躍し息子を国会議員として送り出し平成16年に亡くなり、長男太郎は、設計技師として活躍し、平成17年にここ昭島市で亡くなりました。
栗林の妻、太郎の母義井が没したのは平成15年秋のことです。
「恐ろしい敗戦の運命の中、女ながら強く強く生き抜くことが肝心です」
という夫の言葉通り、戦後58年を生き抜き、苦しいながらも、二人の子供を大学まで出し99歳の長寿を全うしました。






上の写真に写っているのは、現田代薬局の道を挟んで向かいに住んでおられた頃の
栗林忠通中将の長男栗林太郎氏と愛娘よっちゃん、かっちゃんと、若かりし頃の
かわいらしい田代さんです。

上の右の写真は、太郎さんの奥さんで、その後もう一人女の子が生まれ
栗林家は3姉妹ということになります。
下の写真は、向かって右から3人目の女性が、栗林忠通中将の妻義井さんで、
前に並んでいるのが若かりし田代さんとよっちゃん、かっちゃん、一番左が
今は亡き田代の父です。
このたび40年振りに移転先の栗林家を訪れ、7歳までの記憶ですが
おばさんやよっちゃん、かっちゃんにお会いして、なにかとてつもなくなつかしく
幼なじみを持てたということに、ちょっぴり幸せを感じました。
妻や子供の幸せを願い、壮絶な最期を遂げた、栗林中将でしたが、かわいい娘たちと過ごす人生でとっても幸せな時期の太郎氏義井さんに、笑いと幸せを共有できた田代さん、少しは栗林中将のお役にたてたような気がします。

おりしも、戦後ほとんど脚光を浴びていなかった栗林中将ですが、2006年末に
クリントイーストウッド監督、スピルバーグ製作の戦争映画2部作
「父親たちの星条旗」10月28日公開のアメリカ側からの映画
「硫黄島からの手紙」12月9日公開の日本側からの映画
                       配給:ワーナーブラザーズ映画
栗林中将役を、世界の「渡辺謙」が演じるというトピックな出来事があり
ゆかりの地ということで、栗林中将のすごいところを少しだけでも紹介してみようと
考えてみました。

栗林を硫黄島の総指揮官に指名したのは、当時首相を務めていた東条英機でした。
その際、彼は栗林に「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったそうです。
アッツ島は、栗林が硫黄島へ行く前年の昭和18年5月、米軍の上陸を阻止しようとして
死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン列島の子島です。
硫黄島を死守せよと命じられたが、もはや勝って敵を撃退することを意味しませんでした
日本の敗色は日に日に濃くなり、戦力の差は開く一方でしたので、いかにすぐ負けないかの一点で、2万2千人の兵士を預かる指揮官とならなければいけない立場となって硫黄島に渡ったのが、栗林中将でした。
〜今の時代なら、とても考えられない立場です。〜