<日本にとっての硫黄島の存在価値>
日本人の目には、硫黄島はグァムやサイパンなどの島よりはるかに大事に映りました。
硫黄島は東京都の一部で、首都から約1000キロメートルしか離れていない、2600年間侵入者の足で汚されたことがない、神国の一部なのです。
栗林は、日本人としては長身で、多彩な経験を持っていました。
陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、当時28人選ばれた留学組みに入り、皆がドイツフランスなどを選ぶ中、アメリカ合衆国を選び、軍備などの勉強を2年積み、カナダとワシントンで大使に勤務し、中国と満州で戦闘部隊の指揮をとりました。
みごとな英語を話し、1927年37歳で、車を運転して合衆国横断の旅をしました。
その国民性と習慣を勉強して、彼は敵を良く知っており、尊敬し、アメリカの国力を
当時の日本人では最も把握していたとみられ、アメリカにとっての栗林という脅威を
まだ合衆国側は知る由もありませんでした。
<アメリカ合衆国にとってこの小さな島が戦争の鍵を握ると考えられた理由
1944年秋、統合参謀本部は、台湾、中国経由で日本を攻めるというマッカーサー
将軍の計画を却下し、日本本土への正面攻撃というミニッツ提督の計画を支持しました。
日本の軍需工場、軍事都市への事前の集中爆撃も、その計画の一部でした。
テニアンとサイパンから日本へ爆撃飛行をする際にB−29爆撃機の最大の障害は
硫黄島がもたらす致命的な三重攻撃でした。

日本への直行路中にあるその島は、マリアナ諸島と日本のちょうど真ん中にあって、
2つの滑走路(もう一つは建設中)と1つのレーダー・ステーションを持っていました。
日本を攻撃するために往復4000キロの飛行で北に向かって飛ぶ巨大なB−29爆撃機は、硫黄島を基地とする小さい戦闘機には簡単な標的となりました。
その際レーダー・ステーションは爆撃機の日本到着より2時間前に本土の防衛軍に警報を
発しました。
日本上空で対空砲火や空中戦に耐え抜き、損傷したB−29爆撃機はまたしても
帰路で硫黄島を基地とする戦闘機に直面して、多大な損害を受けることになりました。
被害を受けやすかったのは飛行中の爆撃機だけではなかったのです
硫黄島を基地とする飛行機が、テニアンとサイパンを襲撃して破壊した地上にあるB−29爆撃機の数は、東京への全爆撃飛行で失われた数より多かったのでした。
もし連合軍が手に入れれば、それらの損失の減少のみならず、攻撃面で多大の価値を
生むことになりました。
B−29爆撃機がそこに着陸して、負傷者をおろし、クルーを替え、燃料を積むことができ、標的まで陸軍航空隊の長距離戦闘機P−51の飛行隊に護衛してもらうことが
できることにもなりました。