硫黄島は、面積22Ku、世田谷区の半分にも満たない、上空から見た形はしばしば
「しゃもじ」に例えられ、南西の端にある標高169mの擂鉢山(すりばちやま)
<写真で左端>
もっとも高く、島の北東側には、標高約100mの台地が広がっています。
西洋梨の形に似た、硫黄の臭いがする、黒い火山灰におおわれた乾いた荒地でした。
実際に上陸できるビーチは、擂鉢山の麓から始まって東海岸ぞいに3キロにわたって
あるだけでした。島の幅が広がるにしたがって土地が隆起して、蒸気といやな硫黄の
臭いが噴出していて、火山であることが明らかでした。

この起伏に乏しい地形が、島の運命を決定づける1つ目の要因になりました。
滑走路の建設に適していました
小笠原諸島の他の島は山が多く、飛行場には適さないため、3つも飛行場を有する
硫黄島は、航空機が勝敗を決する太平洋の戦いにあって、それは日米双方にとって
必要なものでした。

<島での生活>
川もなく井戸もない硫黄島で、2万を超える人間の生命をつなぐには、雨水の活用と
極度の節水で、栗林は「この島では、水の一滴は血の一滴」を徹底させました。

摂氏60度になる高い地熱と硫黄ガスの中、大規模な地下通路を作り
常識では、水際で相手の上陸を最大限拒むのが常道であるところを、反対に最高峰の
擂鉢山に陣地を取り、圧倒的な戦力で上陸してくるであろう米軍を迎え撃つための
戦術をねりはじめました。






硫黄島での作戦会議風景(上)と当番兵らに囲まれた写真(下)
 いずれも中央が栗林総指揮官(撮影・朝日新聞社記者、宍倉恒孝)