栗林忠道中将の作戦

栗林は、この戦闘に勝てるという期待はすでに持っていませんでした。
アメリカが圧倒的な兵器と多くの兵を送り込んでくることはわかっていました。
そして、消耗した日本の海軍が救援に来ることはないということにも、気づいていました。
彼の目的は、戦闘でアメリカに人命の面で多大な犠牲を払わせて、ワシントンの政府指導者が日本本土進攻の見通しを立てる際に、慄然とさせることでした。
また栗林は、7ヶ月前に日本の同盟国のドイツが、ノルマンディーでの上陸作戦で犯したミスも研究していました。

ノルマンディーは、ヒトラーにとって途方もない軍事的失敗でした。
数年間かけて、海からの侵攻作戦では突き破れない防壁、「大西洋の壁」を造りました。
数1600キロにわたって展開していた何千もの部隊は、セメント製の壕、外洋での防衛力有刺鉄線、強力な砲火があれば、侵攻軍を海中に撃退できると考えてしました。
しかし、アイゼンハワーの軍隊は、24時間でこの壁を飛び越えてしまいました。
硫黄島で強襲上陸作戦に、向いていた場所は、擂鉢山下の3キロ程のビーチしかないと
考えた栗林は、防衛力がいかに強くともいつまでもアメリカ軍をビーチで阻止することは
出来ないと考え、部下たちの反対を抑えて、ビーチの古い要塞の防備を撤去しました
1日で破られそうな防衛施設をやめ、砲を後方に引き下げ、要塞化した地下に兵を移しました。火山島のビーチのきめ粗い砂を手の上でふるって、栗林は、ここなら人間も機械もたち往生すると思いました。




擂鉢山−南海岸より
米軍海兵隊が上陸した海岸で、別名上陸海岸といいます。波が高く砂が黒いです。
珊瑚の破片と黒曜石の入り交じった「うずら石」(写真右)は、世界でここと
イタリア・シシリー島でしか見られないといいます。
                 撮影 平成7年(1995年)  宇野 昌史

そこで彼は、ビーチが満員になるまで待つことにしました。
栗林は、戦争史上もっとも独創的な要塞の建造を考えました。
当時の要塞造りのスペシャリストを硫黄島に招き、専門の石工、トンネル造りの技師、
工兵大隊、陣地構築部隊によって、トンネルで結ばれた地下の洞窟網の設計図を作りました。硫黄島では、守備隊は1500の地下室を造りました。
専門家は、入口と出口の高さを変えておけば、換気が自然に行われること、
また穴を直角に曲げて、入口付近で起こる爆発から爆風を避ける方法などを
知っていました。
その多くには電力が供給されており、換気がなされ、ほとんどの壁が漆喰壁でした。
各部屋は、9〜15メートルの深さがあり、階段と通路がついていました。
弾薬、食料、水その他を蓄えられる広さがあり、閉じ込められるのを避けるため複数の
出入り口がありました。砂やあらゆる物でカモフラージュしていたため、航空写真では
単に地下壕網の開口部を見ることしかできませんでした。

1944年秋には2万2千人が住む、まぎれもない地下都市が硫黄島の地表下で機能していて、兵が立ったままで走りぬけるぐらい大きく、栗林は地表から22メートル下に作られた耐爆司令室で、戦闘の指揮をとることになりました。
1945年2月11日、紀元節が硫黄島守備隊にとって最後の休日となりました。
この日、日本では「硫黄島守備隊の歌」が発表され、国中にセンセーションをまきおこしました。硫黄島では、各部隊がそれぞれ陣地に集まり、東京から放送されてくる
その歌に耳を傾けました。自分たちのために特別に作られた歌を聞いて勇気百倍し、
感激も新たに、全員にふるまわれた餅と赤飯を食べ最後の酒とビールを飲みました。