<手紙の奨励>
そんな中、手紙を奨励し、米軍上陸前、兵士たちは訓練と陣地構築のかたわら、せっせと故郷に手紙を送り、硫黄島からは遺骨や遺品がほとんど還らなかったため、多くの遺族が戦地からの便りを形代として大切に保管しました

栗林自身も米軍上陸までの約8ヶ月のあいだに、41通もの手紙を家族に出しています。
「栗林忠通 硫黄島からの手紙」解説 半藤一利  1000円
           文芸春秋より2006年8月10日に第一版が発売されました
長男太郎のもとに残された文面からは、遠く離れてもなお、何とか家族の暮らしを支えようとする家長としての思いがあり、あるいは留守宅の日常をありありと思い浮かべる時間を持つことで、彼は自分自身を支えていたのかもしれません。
よくもこんなこまごまとしたことまでと思うほど、生活の細部について心配し、
くり返しアドバイスを書き送っています。
ただ優しい言葉をかけているだけではなく、必ず具体的な対処法を示しているのが特徴でした。
長男太郎に出征前の父の話を聞くと、台所をはじめ家のあちこちに棚を作っていたそうです。留守宅に宛てた手紙の中には、天皇、皇国、聖戦、大義といったいわば
大きな言葉はなく、かわりに出てくるのは、アンカや湯たんぽであり、腹巻やラクダの
シャツであり、屋根裏にしまってある靴の箱などでした。
生活の細部を見つめるこうした栗林の目は、硫黄島において、地形を細かに観察し
毎日陣地を見回り、兵士たちが何をどのくらい食べているかをチェックした目でした。
栗林は軍記の厳しい将軍であり、時間の厳守、即時実行主義の人でしたが
温情あふれる一面もありました


奇跡といえる強力な統率力
生き残った将兵が口を揃えて「自分は栗林中将に会った」
としかも複数回あったと証言している事実があります。
単に顔を見たというだけでは無く、「ご苦労」と声をかけられたとか、射撃の指導を受けたとか、歩兵、通信兵、海軍兵等の兵種を問わず、「感激をもって栗林中将の面影を
懐かしんでいる」のです。

ある中隊長が言うには、栗林中将は私をタコの木の陰に誘って煙草を差し出し火もつけて
くれました。こんな経験は初めてです。大隊長までならいつでも顔を合わせて何でも言えますが、師団長ともなると顔を見ることも殆ど無いものです。
それが親しげに煙草を出し火をつけてくれるなんて、普通考えられない出来事です
作業ズボンは汗と土にまみれ、上半身が裸、「お前は中隊長かご苦労だな」
それから兵たちの健康状態、陣地の火網構成要領等を詳しく説明した後各陣地を熱心に
見て廻られ、指導し的確な意見を述べられました。
栗林は2万以上の兵と1度ならず口を利いたことになりますが、彼の在島日数は200日
程度ですので、割り算をすると、1日200人以上の部下に声をかけて陣地を廻った計算になり、53歳の師団長が奇跡に近い行動力であった事になります
陣地視察の折、必ず作業員全員に煙草の土産をわけ、にこにこして彼らの労をねぎらった
のは、地下洞窟陣地の構築という極めて過酷な作業を連日連夜遂行させるには、単なる
命令や督励ですむものではなかったのでしょう。
栗林は、水が無いためコップ一杯の水で歯を磨き、顔を洗っておりました。
連絡のため硫黄島を訪れた中佐が1籠の生野菜を栗林に届けたおり、栗林は目に涙を浮かべ副官に命じ、小刀で雀の餌ほどに小刻みにし、連隊長以下できるだけ多くの将兵に分け与え、自らは一片も口にせず、僅かのパパイヤの実を集めては、漬物を作り回りのものに
与えるのを見て、その中佐は、昭和の乃木将軍かと深い感銘をうけたりしました。