<アメリカという国をよく知っていた栗林中将>

昭島市の栗林家に1冊だけ硫黄島からのものではない手紙のファイルがあります。
罫線のない白い紙にのびやかなタッチでユーモラスな絵が描かれ、短い文章が添えられて
います。30代の栗林が留学先のアメリカから留守宅に送った絵手紙でした。
なぜ絵手紙かといいますと、長男太郎君は3歳で字が読めないので、一緒にいれない不憫さで、栗林自身の絵もたくさん交え、母に読んでもらうようにとのことでした。絵はどれも驚くほど達者で、自在な筆運びは素人離れしており、栗林の意外な才能を見ることができます。
「玉砕総指揮官の絵手紙」栗林忠通 (小学館文庫) で本になって発売されました。
2002年4月に第一刷が発行され、増刷の予定がないので、書店では手に入りにくいです。
昭和3年にアメリカでこのような体験をし、すばらしい絵手紙が存在し、運良く幼なじみということで、栗林家にて原本をスキャナで取り込むことが出来、あの時代にとてもユニークな日本人がいたと皆さんに紹介することができました。当HPをゆっくつご覧下さい。






日本陸軍の典型的なエリートコースは、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へと進み、
さらに陸軍大学を卒業するというものでした。
出世という点から見ると、圧倒的に幼年学校出身者が有利でしたが、栗林は地元長野の
中学校から陸軍士官学校に進みました。けっして超エリートコースではなかったのですが
部下の一人は「広い視野の持ち主だったのは、幼年学校出身でなかったことが大きい」と語っています。

海外留学は当時、陸軍大学校を優等で卒業した「軍刀組」(恩賜の軍刀を受けたのでこう
呼ばれています)の特権でした。ドイツ、フランスが多い中、栗林は数少ない英語圏の
アメリカに昭和3年3月留学しました。陸軍大学校を卒業して5年、36歳の騎兵大尉でした。妻と長男を残しての単身赴任でした。米国騎兵第一師団付として軍事研究のかたわら、ハーバード大学、ミシガン大学の聴講生となり、語学やアメリカ史、また当時のアメリカの国情などを学びました。


これは、硫黄島の戦いではアメリカの軍隊で学んだ人間を相手に、アメリカが戦った事になります。

































タクシーに乗って走り去る栗林と、手を振って見送る人たちが描かれた手紙があり、
留学当初、民間人の家に下宿して暮らしていたバッファローという町を去り、首都
ワシントンに向かう場面で、







「バッファロの下宿のおばさんや、近所のおばさん達がみんなして御父さんが帰ってしまうのを、惜しがっているところです。御父さんはそれ程みんなに好かれました」
と添えられています。




























栗林が昭和4年アメリカで購入した
シボレーK型と同型
これで1300マイルの
アメリカ横断を単身で走破しました

4年前に国内シェア56パーセントという
圧倒的な人気を博したT型フォードに対抗し

てGM社が売り出したこの車で、2年後には
T型フォードは生産を打ち切るまで追い込まれ
ました。米国のターニングポイントになる車に栗林は乗ったのでした。(友人ワイトマン氏の車で、ワイトマン氏撮影 )
当時の日本人の状況からすれば、とてもすばらしく、ユニークな経験といえるでしょう。









「バァファロ」の
下宿のおばさんや
近所のおばさんたちが
みんなして
御父さんが帰ってしまうのを
惜しがっているところです
御父さんはそれ程
みんなに好かれました

〜アメリカから3歳の太郎君に送った絵手紙



時代背景としては、栗林が渡米する前年にリンドバーグの大西洋横断飛行成功にアメリカが沸き、翌年には第一回アカデミー賞授与式が開催され、ミッキーマウスが登場しました。
栗林が帰国の途についたのは、昭和5年4月です。
ロンドン、パリ、ベルリンを経由して昭和5年7月に日本に到着しました。
2年に及んだアメリカ滞在中、栗林は米軍人やその家族と親しく付き合い、中には深い友情で結ばれた軍人もいました。
昭和20年2月19日、もっとも戦いたくなかった国アメリカを、国土の最前線で迎え撃つという歴史の皮肉のただ中に、彼はいました。







アメリカのモータリゼーションの隆盛に大いに興味を引かれた栗林は、当時最新だったシボレーK型を入手して運転を練習、昭和4年の12月にはカンザス州から首都ワシントンまでの1300マイルを単身で走破するという「冒険」をやってのけました。
当時の日本人ではありえなかった出来事で、江戸時代のジョン・万次郎みたいです。


細い雪道を通っての山越えもあり、吹雪の中でパンクして難儀した様子などが絵手紙に
描かれています。ある時砂漠で車が故障して困っていたら、17〜18歳の娘が自分で運転して通りかかり、修理してくれたことに驚いたそうです。

アメリカでは16歳以上なら届出をすれば誰でも運転でき、簡単な修理はみな自分でやることにいたく感心したそうです。




机上の学習だけでなく、こうした日常的な経験から栗林は日本との国力の違いを実
感したようです。