<大船団の移動>

1945年1月下旬、大艦隊がパールハーバーから船出して、長さ70マイルに及ぶ
護送船団を形成しました。

パールハーバーで不意打ちに合い、その後も日本の突撃部隊と戦うたびに掃討された
合衆国は、その力を結集し、冷静になり、現代の無敵艦隊として、4千マイルの航程に向かいました。
オーストラリアの近くから北上する艦隊と合流して、艦船







の総数は800隻を越え

これは現在の海兵隊の全地上戦力に相当しました。
世界大戦のあらゆる戦場から、国家的危機に際して送られた支援で、フィリピンの
ダグラス・マッカーサーや中国とインドの司令部から、ヨーロッパのアイゼンハワーは
イギリスからノルマンディーのビーチへ部隊を運んだ輸送船を送りました。

海援隊、海軍、沿岸警備隊の10万人以上の兵を3週間で4千マイル移動させました。
いよいよ国力を発揮しだしたのでした。

<アメリカの上陸作戦開始>
アメリカ側硫黄島攻略部隊首脳の顔ぶれ
1)総指揮官スプルーアンス海軍大将
2)硫黄島派遣軍総指揮官リッチモンド・ケリー・ターナー海軍中将
3)硫黄島派遣部隊総指揮官ホランド・M・スミス中将(海兵隊)
4)第5敵前上陸軍団司令官ハリーシュミット少将(海兵隊)
この上陸部隊は、単一指揮系統で戦った軍隊としては史上最大の規模でした
海兵隊の司令官は、ルーズベルト大統領自身が選んだ、62歳の雷おやじこと
「ホランド・M・スミス将軍」で彼の海兵隊は一度も戦闘で負けたことがありませんでした。

1944年12月8日(パールハーバーからちょうど3年目)から陸軍航空隊の
B−29,B24爆撃機が容赦なく硫黄島に爆撃を開始しました
連続72日間爆撃を受け、太平洋戦争でもっとも激しく爆撃され、もっとも長く爆撃に
絶えた記録を打ち立てました。
指揮艦エメラルド号上にいたスミス将軍は、島が1平方インチ単位で爆撃をこうむったことを示す偵察機の写真を検討しました。のべ2700機を出撃させて5800トンの爆弾を投下しました。ミニッツ提督は「島の上にあるものはなにもかも粉々になるほど十分に」爆弾を落としたと考えていました。
しかし信じがたいことに、敵の防衛力は強まっていました
爆撃が始まったときには、主要な防衛施設は450だったものが、いま750以上写真に見て取れました。その写真を見て、
スミス将軍はショックを受けました。
空襲は敵の抵抗力を弱める行為だといわれたが、硫黄島はさらに強固になりつつあったのでした。





写真左が雷おやじこと
「ホランド・M・スミス将軍」です