趣味といわれるもの、傍から見れば実に滑稽なことに夢中になります。まず、許される限りの時間と金銭をつぎ込みます。人生のすべてまで注ぎ込む輩もいます。「男のロマンだ」なんて言いますから、男に多いようです。シュリーマンのように、執念を持って夢とロマンを追うと歴史に名を残しますが、おおかたは他愛のないことに執念を燃やします。
女性はここまでのめり込むのは大変のようです。家計のやりくりがありますから、このあたりで夫婦の諍いも起こりがちです。どうも、自己体験に基づいた話しで恐縮です ^_^;
妻は「壊れたら捨てる」、「汚れたら買い換える」、それが何よりの整理整頓術であると信じ、確かに一面の真実ではあります。最近、「断捨離」なる言葉がはやり出して、いっそう肩身が狭くなりました。いつ「あなたも不要!」と、宣告されるか ^_^;
昨年、家を建て替えることになって、妻の命令が下り、あちこちに隠し置いた古い機器のたぐいは、幾ばくかの費用を払って廃棄しました。知人にそれらしきコレクターが現れて、使っていない8ミリカメラや銀板カメラ、オリンパスOM-1や付属レンズ類、引き伸ばし機、自作SPなんかも何とか引き取っていただけました。
骨董、レトロという言葉には、何か心惹かれます……。懐かしさとは癒しの一つ。私がオーディオに求めるものは癒し。安らかに居眠りできること、それこそ至高の癒しの時間。オーディオとは、決してハイファイ音を聴く事だけではないと……。
オーディオ趣味では、多種多様の製品の中から愛機を選択するにも目移りします。評価するにも、多様な側面があります。音、性能、デザイン、カラー、大きさ、重量、ユーザビリティ、故障の少ないこと、耐用年数等々。何よりもまず、機器を前にしたとき、ほっとする好ましさを感じなければなりません。
たとえばカラー、マッキントッシュはブラックとブルーのイルミネーションだけで瞬時に判別できる個性ですし、60年代にはサンスイが全身ブラックで登場しました。カメラでブラックボディが好まれると、オーディオ界にも波及したのかほとんどの機器がブラック一辺倒になりましたが、どうも好きになれませんでした。いまも、シャンパンゴールドに統一しています。
これ見よがしに、スイッチ類がごちゃごちゃとついたデザインは嫌いです。一度も使わないスイッチ類が半分で、ユーザビリティとしても、操作時に戸惑います。これらをシーリングポケットに隠すと、デザインだけでなく操作もシンプルになって向上します。この点、Accuphaseのデザインは見事、愛機LUXMANも、この程度がよろしい。
妥協できないのは、当然のこと音の好みです。音の良否は、必ずしもスペックと一致しません。たとえば、スペック上の周波数レンジや歪み率と、聴感上のリアル感、好ましさとは一致しません。最も大切な要素は、音の厚み、肉声の生々しさです。カーラジオと同じ薄い音では、せっかくの安らぎが台無しです。
古きを捨てて、新しいものを求め続ける貧しさ。バブルの時代にいつかそんな貧しさが蔓延し、癒しを失った日本を感じます。進歩と退歩との区別は難しいと、古き良きものをオークションで探っています。バブルの頃、使い捨てと欲しいものは金で手に入れる風潮が蔓延しました。欲望と飢餓感とが際限なく膨張し、倫理が失われたように思われます。
今朝の朝日新聞「私たちがいる所 戦後60年から」で、桐野夏生氏が語っています。バブル期には精神面で「マル金、マルびと、もてる者が持たざる者を臆面もなく揶揄する下品な社会を作った。バブル崩壊後も、その下品さは残った。
今、バブルがはじけて日本の雇用形態は変わり、かつての中流家庭が階層分解し、中流に見える家庭が二つに分断された。ホワイトカラーの夫と最下層ブルーカラーの妻、そして性別を問わず職場から閉め出された若者、という構図が新しい日本家庭のモデルだ。「実際に新しい豊かさの原理が見えてくるかどうか、私はやや悲観的です。」と。
そんな殺伐とした貧しい社会であればこそ、これからは癒しのオーディオ道。新しいものへの欲望ではなく、心の癒しを求めて懐かしい思いを訪ねたいと。
04th Jan.'05