原因は判明したものの、スペアパーツは既になくアセンブル交換なんて訳にはいかない。一つ一つ部品の劣化をチェックし、故障箇所を見つけたら、マッチするパーツを探し出して手作業で組み直し補修するらしい。P D-300を購入してまもなく、PD-310にモデルチェンジになりましたが、双方多くの部品が共通です。劣化順序としては、吸着不良を発し次いで回転不良が発生するらしい。回転系では制御電子部品が劣化し、モーターは半永久的という。
四半世紀を経てなおバキュームを維持し、使用機材のほとんどがラックスと云うファンの依頼とあって、サービスの方も気合いが入って何とか努力しましょうと心強い言葉。しかし、1月ほどかかりそうといわれたその期限も過ぎた。物である以上、寿命と見るべきか。部品取りか後継機を、とオークションを探り始めたこの頃。CDで代用してはいても、やはり違う。いくら美しげな音のようでも、五官が拒否反応を示します。
29th Oct.'05
そこで、古い愛器をいとおしみ手入れします。愛用のプレーヤーPD-300は、直射日光に当てないのは当然として、埃の侵入や劣化を防ぐため、透明ビニールで覆っています。砂漠住民のヴェールをイメージから、「アラブの貴婦人」とネーミングしています。
吸着方式のターンテーブルの周辺、ゴム製のリムは年に一度稀アルコールで清拭します。微生物によるゴムの分解劣化を防ぐためで、1980年に購入以来なお吸着機能は健在です。バキュームオン・オフによる音の差は僅少ながら、演奏中にオフになると感知できます。
しかし、物には寿命があります。この夏あたりから時折回転が不安定となり始めました。機能チェックやメンテを受けている、地元サービスに持ち込むこと2度、秋には制御不能に陥りました。
最近、巷ではアナログが静かに隠れたブーム……、とまでは行かないまでも、明らかにデジタルと違う音の佇まいと色艶が評価されているようです。ディジタルオーディオ世代にとって、アナログレコードが新体験でも、歪率オーダーが二桁も劣る音が、こんなにも快く耳に馴染むことに驚くに違いない。
時代文化は具象から抽象、さらにバーチャルへと変化しています。レンブラントであれ、ルーベンスであれ、ミレーであっても、そこには共通の魂が息づき、抽象画の世界とは一線を画します。音の波形がそのまま刻まれたレコード技術と、音を細切れにして0と1のデータに変え、さらに高密度に圧縮するという技術との間には、同じオーディオという言葉でひとくくりにできない、何か決定的な断絶を感じます。
滅び行くものは、最後に美しくはかない光芒を放つ。スクラッチノイズが僅かにのった愛聴盤からでる音は立体感と陰影に富み、目を閉じればその時代が蘇る……。などといえば、単に老人の懐古趣味、ただの思い入れの世界に過ぎない。描写がいけない。もっと本質的な、レコード音響の美を語らねば……。
どんな音楽も、許容限界を超えてある音量になると、苦痛な刺激音に変わります。電気的に増幅された音と、アコースティックな楽器の直接音とでは、快感や苦痛と感じる違った要素があるように感じます。その要因は、単に「歪み率」の要因だけではないと思われます。自然界の音にある共鳴音、あるいは倍音成分が含まれる超高域成分が、増幅過程や、またデジタル化の過程で取捨されます。
人の感覚は、歪み率ではなく、この自然界に存在するノイズが欠落した音、自然ではない音に違和感を感じ、そのボリュームが次第に上がると騒音と感じ始める。その限界点が低いほど、オーディオとしては劣っています。多分それは歪み率のようなデータだけでは評価できません。私は、あるときからこのように感じて、歪み率の値や、測定器のデータをほとんど無視するようになりました。このことについては、別稿「生物学的評価法」で述べます。
アナログ再生でほっとする安らぎを感じたら、それは決して懐古趣味の感情によるものではなく、オーディオとして優れていると評価します。それは、私だけが感じるの感覚ではなく、かなり多数のオーディオファンに共通するもののようです。アナログだけを扱う雑誌まで現れました。
さて、しかし時代はやはりデジタル。少量生産品は高くつくとはいえ、最近のアナログ関連機器の価格はべらぼうです。脱税か詐欺かバーチャル産業か、そんなユーザーを想定しているのか、といいたくなるような価格です。善良な市民、サラリーマンにはおいそれと手がでません。