最近の曲は、本格的なオーディオ装置では聴けません。音域は狭く、中低域と中高域を不自然に盛り上げており、フラットな再生では人声が埋没してしまいます。60〜70年代のポピュラー音楽が遙かにハイファイ録音です。最近、人声に安らぎを感じます。和洋問わず、ポップスもよく聴きます。Simon & Garfunkel, Carpenters, Alis, 中島みゆき等はデビュー当時から。ハイファイオーディオの真骨頂は人声の再生にあると気づきました。アナログプレーヤーが消滅しつつある時代ですから、゜レコード盤が比較的安価です。オーディオ再生機器で聞く歌唱力はすばらしい。
多くのレコードはスクラップとして処分されるのだろうと、価値あると認めたのはサルベージして磨き上げますが、なぜなのでしょう中古盤が暴騰した歌手もおります。しかし、一度聴いてCDでは決して感じられなかった実力のすごさを感じてしまうと、見つけるたびに出費することになってしまいます。
08th Apr.'06
クラシックの背景には中世の社会構造に花開いた貴族文化の洗練があり、ジャズの背景にはアメリカ発展の底辺を支えた黒人たち、高度に発展した社会への反抗メッセージとしてロック……。いつの時代でも、その音楽を生み出す土壌がありました。豊かな時代背景と文化の下に音楽が生まれるとしたら、現代は不毛の時代、不幸な時代を迎えました。
自分史と重なる時代の音楽を辿ると、歌謡曲、フォーク、ロック、ポップス、ニューミュージック、ラップ……、さまざまな音楽が、地球規模でボーダーレスとなった文化環境の下で、融合、展開を繰り返しています。それを担って音楽文化とオーディオを支え、リードするのはいつの時代も若者たちの世代でした……。
過去形で表現しましたが、現代の社会構造は若者に冷たい時代です。唯物弁証法では生産経済を社会の下部構造、それに支えられる社会文化を上部構造と見なしましたが、現代文化は正にこれを証明しています。若者は社会に旅立つ第一歩でフリーター生活を余儀なくされ、民主を政治理念に掲げるリーダーたちは、社会的格差の拡大を是認しています。若者たちはそこでオタク化し、音程もメロディーもない単調なリズムに不満の言葉を載せるだけの手段を手にしました。それは先端音楽となり、再生する機器は安価でコンパクトな、通信とリンクした「先端高度技術の粋」となります。
みわたすと、市場需給バランスの下で生産し販売して余剰を生み出す経済原理を逸脱して、虚構の富が富を生み出すバーチャルテクニックが現代経済を席巻しています。砂上楼閣、虚構が生み出す富の力、金権が社会の隅々まで浸透し、もてはやされます。文化も、音楽も、再生装置までもその力の前にひれ伏そうとしています……。現代文化の担い手はMicrosoft Windows、Apple iPod……。
オーディオ文化が衰えたのは、それなりの再生装置でなければ味わうことの出来ない長大なクラシックが廃れ、ラップ音と、声量も志もないつぶやきの再生には、もはや「オーディオ」は不要ということか……。そんな時代潮流に、私もすっかり毒されていました。
先日の入学式でのことです。新入生が続々と入場してくる会場にはビバルディの優しく澄んだバロック音楽が流れていました。良い音で、装置を入れ替えたかなと考えましたが、あまりに生々しく美しい音色が訝しく、スピーカーに目をやりました。すると、二階通路の目立たない隅っこに、学生の管弦楽サークルの一団、なんと再生音楽があたりまえという先入観で、ライブ演奏を再生音と判断していたのです。