T-13 レクイエム…オーディオの凋落

 私のaudioとは、五官が感じるままに快い音響に身を浸すこと。誰のものでもなく、自分自身のための快い音響環境が達成すべき目標です。音響とは『振動のすべての総和』ですから、当然、体感できる最低音域から可聴帯域限界以上の高域まで、その振動の全てが伝わり、できればライブで体感する包み込まれる音響空間の実現が理想です。といっても、現実は、手間、暇、カネ、そしてスペースがなければ実現できません。理想を実現するのは至難で、どこかで折りあいをつけます。

 ここしばらく、オーディオ雑誌の類をほとんど読んでいません。Webのオーディオサイトで気にかかる変化は、オーディオが、実践し体感する趣味から、知識なり理屈の趣味に変わりつつあることです。背景は、第5話で桐野夏生氏の言葉にある社会の中流家庭の階層分化が急速に進んでいること、さらに定職をもてない若者を生みだす社会です。こんな社会基盤の上に、まっとうなオーディオ文化は育ちようがありません……。

 オーディオが耳学問の借り物となり、高度な断片知識は披瀝できても、自分の耳で聴いた音それ自体を評価できない。体感している音と、知識として蓄えた音響を比較することができないと、唯一頼りとなるのは雑誌から仕入れた理論になります。シングルコーンが最高度の定位と音場を形成する、と誰か評論家が語ったのでしょうか。それがオーディオの最終解であるかのように付和雷同します。この論に依拠すれば安価で初歩的セットでaudioの高みを達成したような錯覚、満足を得られる訳ですから……。

 オーディオ趣味を詰めていくと、やがて目標はライブ演奏の再現をめざします。ここから、好みの音楽ジャンルによって全く音出しも異なることに気づかなければなりません。これが絶対というaudioはなく、例えばバロックとハードロックとを比較しても、宮廷で貴族が食事をしながら背景に流れる癒し音楽と、体制批判をぶつけるエネルギーの発露とを、安易な言葉で『原音再生』とひとくくりにすることは不可能です。最近のオーディオを論じる者の中に、再生音響の多様性を受け入れない言葉が目立ちます。タンノイを箱鳴りは最低云々の発言が増えつつある現実に、オーディオの凋落を思います。人気の、某巨大サイトの影響も感じます。 
 
 私がめざす音出しの一点目は、SPを意識させない音場形成です。次が音像定位(聴きながら顔を振っても、音像位置が揺れない)、最後に位相(音の前後左右、自然な空間の位置と立体感)です。この位相管理が一番難しく、悩みます。これら3つの基本には、『明瞭な音の輪郭感』、『丸い音は丸く、とがった音はとがって』という再生の基本能力の高さが必要です。機器とそのセット、部屋の特性等すべてがトータルに影響します。小型SPで容易なこともありますが、やはり大型で、しっかり位相管理されたSPでなければ再生出来ないことがあります。人を包み込む音響、ある人は『スケール感』といい、『リアル感』と表現しています。

 私は、小さなヒアリングルームで中小音量でクラシック全般、バロックやボーカルを愉しみますが、良質の木質と人声が最も美しい響きを持っていると感じます。機器のセットと接続に留意し、ケーブル類も試して、微かに余韻感のある音響空間をめざします。機器の基本再生能力だけでなく、放射音が適度に反射され吸収された、好ましいエコー感のある音場形成です。その時、音はSPを離れた空間に疑似ステレオイメージを作ります。共鳴も利用します。音楽家が楽器をSPの傍に置いて音が変わった体験とか、陶磁器を試したりという体験を見聞きしますが、以前は『邪道だ』と思ったものですが、いまは『裏わざ』ととらえます (笑)

 My mixiのオーディオファンが、ALTEC 409-8Dを平面バッフルで楽しんだ感想を述べています。ちょっと引用させていただきます。『なんと開放感に溢れ、屈託が無く、伸びやかな音でしょうか。この平面バッフル、もう何年も音出しをしていなかった様ですが、パワーを入れているうちにどんどん音がほぐれてゆきます。楽しい! 人の声を通すのを最優先に設計されたからでしょうか、中域の実在感は天下一品です。 』試聴したのがリパッティの最後のステージですから、更にその喜びと感動をデリケートな心の襞まで綴った文章は長文で秀逸です。私の聞いたことのない機器ばかりですが、出てきた音をイメージします。おそらく輪郭を縁取ったような音でなく、自然と、空気と、呼吸とが一体になってとけ込む音響だろうと推測します。

  先日、娘たちが20年来師事し家族ともども親しかった音楽家の追悼コンサートがありました。600席ほどの小規模なコンベンションホールで、パイプオルガン、ソプラノの他、娘たちの所属するピアノ・リコーダーサークル等、プロ・アマ混成、バロックが主のプログラムを愉しんだり、故人を偲んだり……。小ホールの音響にひたりながら、ふとオーディオ再生音との差、オーディオ再生ではあまりにクッキリした音を追い求め、ナマの音楽が醸し出す音場の曖昧で美しい響きを忘れていたなと、深い感銘とともに、人の心を癒す安らぎの神秘的魔力はこれだと感じました。

 ホールは木質系、マイクは一点、複合型ノイマンがワンセット、ステージから外れた客席空間の頭上に、25c m程の間隔でステージを俯瞰するようにセットされていました。私は、10列目よりちょっと後ろ。間接音がほとんどの音場空間は、音像とか、定位感とか、そんなことは意識せずともよい快さでした。ソプラノのアベマリア他数曲、会場の隅々まで共鳴して行き渡る凛とした響きは、これだけは楽器とは異質で、見事に会場の空気を貫き、オルトフォンでキャソリーンバトルを再生した際に疑問だった硬質感にも共通する音響であり、同時に、やはり再生音とは異質の生々しさに満ちていました。