会とは永遠の引分け、発を孕む力を累積する伸びあいの持続と連続であると、弓と張り合いながら矢筋方向に全身全力で伸びあい、弓と一体化する作業であると述べました。そして、そのための要点も述べました。
このような会の結果として必然の、鋭く軽い離れで中たる一射を実現するのは、ただ練習でしかありません。それは決して射技を理解して可能となるものではありません。
たとえば一週間に一度、さらにまた、病気や怪我で数か月弓を引かずにいると、たとえ見た目の形は同じようであっても、射としてはまったく違うことが自覚されます。身についた射技として、たとえ同じように見える打起しから離れへの運行であっても、会が孕む離れの発動力が異なります。その結果として胸が弾けるように割れる離れが生じることはなく、弱い離れは矢速と矢所を変え、的前4時方向に外れます。
一射は弓力と体力(筋力)と射技との総合です。青年期では、筋力の衰えは練習によって速やかに回復します。加齢とともに、練習によって筋力を維持することはできますが、筋力を回復し高めるには非常に長い練習時間を要します。私の場合、押手肩を治療して1年半を過ぎ、8割方回復したように思いますが、矢数をかけると弓手の手の内が痛くなります。たぶん胸と両腕とで伸びあう筋力が不足のため、その分指先に力がこもってしまうのでしょう。
競技があると、当てたいという欲望に勝てません。当てることはできます。的付けをわずかに後ろ、的半分から的一つの範囲でずらすことで、カバーできます。しかし、真の中たりではなく的付けをずらして当てていることを自覚していますから、かなり気分が滅入るものです。
射型にのみ心を奪われ、真の離れに至ることのない練習を続ける弓人がいるかも知れません。その責任の一端は指導者も負うべきでしょう。会で伸びあう努力より、縦横十文字の射型を重視する教えを見受けます。直立したまま腕力だけに頼る動作を覚え、離すことを覚えます。さらに当てることを覚えます。悪いことに、やがてそれを人に教える立場になる場合もあります。
そこで射技練習は、教本の静止画を具現化しようとする努力に費やされます。胴づくりから真っ直ぐ直立する姿勢を教えると、会に向かって弓を引き込むほどに上半身が後ろに反ってしまいます。それを避けるために、つぎは伸びあいのない心気の止まった会を教えます。弓も体も直立して、一見美しい(静止画的)正射像に見えますが、そこから真の離れは生じません。
弓の中に体が割って入るように引分ける、と表現されますが、これは直立したままではできません。十分伸びあう努力によって、このとき上半身(胸から上部)は起きあがってきます。反らないように上半身を前上方へと意識し、それを足腰で受けるようにして伸びあうと、弓と体が張りあうように寄り添い体がくさびのようになって弓に割り込めます。
それは、感覚であって形ではありません。物理的に矢を番えた弓の位置より体が前方に出ることはありません。押手肩がしっかりかみ合い、伸びあいが続くと胸筋が開いて弓に割り込んでいくような感覚が生じます。
さらに、体がくさびのように弓に割り込んだ感覚が生じると、会の時間的持続は呼気の続く限り容易です。私は、かつては呼気が完全に尽きるまで会を延長しようとしましたが、離れが乱れる癖がでたので、呼吸が苦しくなる一息前で会が完成し離れが生じるよう練習しています。
射技にまさる気力と体力の充実、一射の醍醐味はそこにあるように思います。それは決して射技の追求から生まれるものでなく、たゆまぬ修練だけがそれを可能にします。