これまで、一射にこだわった話ばかりを続けてきました。思うように引けなかったことで、かえってただ一射のイメージを膨らませていたのかも知れません。日常の練習から、射会、審査にいたるまで、実際に弓を引く場では、一射を論ずるのは非現実的な話です。

 最近、20射程度は曲がりなりにも引くことができるようになると、当然競技への意欲も湧き、的中をめざすようになります。しかし、不思議なことに、久しぶりの射会に臨むと、初心の頃のような心の動揺を感じます。一手は皆中できても、四矢皆中はできません。皆中目前では、最後の一本を「当てたい」と動揺します。そして、当然のことながら失敗して外します。

 正射必中といわれますが、それがいかに難しいことか。一射の的中確率は、中たりか外れのいずれかですから、常に50%です。とすれば、数学的確率は別として、標準的な弓引きといえるには矢数の如何に関わらず半矢の的中があることでしょうか。もし、これより低い的中率ならば下手であり、これより高いならば上手、常に100%的中するのなら名人といえるでしょう。

 競技では、一射毎の条件によって的中確率が変わります。射を変え、的中確率を変化させるのは心理的プレッシャーです。中たりをほとんど確信できるような状態では、自分の行射中に競射相手の中たり外れは気づきません。さらに、一手の場合も四矢の場合も、何射目のどんな条件であろうと、心理的にも一射は他と同じ一射です。

 しかし、久しぶりの競射の場では、競射相手の的中がプレッシャーとなり、四矢で三中後の最後の矢、あるいは九射九中後の十射目の矢をはずす確率は、きわめて高くなります。勝敗へのこだわりと的中へのこだわりは、射を失敗させる最大の要因です。

 一手の場合、身体的負荷と心理的プレッシャーは、四矢に比べて遙かに小さいようです。平常心を維持する心気の持続時間と、筋にかかる負担が小さいことによるものでしょうか。

 射は正しきを己に求む。己正しくして而して後発す。発して中らざるときは、すなわちこれを己に求むるのみです。練習は、技量と、体力と、平常心を養います。修練によって心気が強まるだけでなく、射技の向上による的中の確信は、いざの場での平常心に直結します。

 射技の向上は、1万本の射を積み上げてなされます。いざの場で四矢皆中をなすのは、射技の優劣以上に心気と体力の充実如何です。ゆるぎない射手に至る王道、それはただ射技を追求することではなく、たゆまぬ修練だけが唯一の道なのです。


 十月半ば、射会後の反省会でのこと、多くの初級者の前で、かつて競いあった二人で酔いにまかせて的中を論じあいました。その後、酔いが醒めて巻き藁前に立ったとき、自分の未熟な練度に悲しくなりました。

 四矢皆中が再来する日まで、巻き藁前修練を続けるつもりですが、ある矢数を超えると、肩から首筋にかけてしこりが残ります。一年半ほど前、手術で肩先から削りとった増生物を、親しくなった看護婦長さんに見せていただいたことを思い出します。まだ、四十射を超えると負担が大きすぎるようです。じっくり時間をかけ、クールダウンのマッサージに気を使います。