今夜もまた少し不遜なことを語ることになりそうです。

 これまで弓を引いてきた年月、何も知らずにただ当てたい一念で引いた頃、中たりが出て夢中になっていた頃、それから少しは形良く引きたいと思い、やがて冴えた弦音で引きたいと思い、弓と一体となりたいと思いつつも、いつまでもそうなれない自分が恥ずかしい現在……。

 弓を引くには、弓師、矢師、かけ師の方々の下支えが絶対必要です。自分で少しは、矢師のまねごとや、弓がけの修理や、弓の矯正をできるようになりましたが、弓具を大切にしなさいという教えが何をさすことなのかをやっと理解し始めました。人も道具も、すべてはもろい壊れものであり、何より育てかた次第で、塵芥ともなり光り輝く珠にもなるのです。

 弓には一張り一張り実に個性があって、愛着が湧くのと、どうも好きになれないのがあります。肩の傷が癒えはじめて弓ひきを再開しはじめたころ、どのくらいが引けるか試す意味もあって、手持ちの永く放置していた弱弓や補修したのまですべてを引き出し、弦をかけて並べてみました。

 改めてながめると、姫反り周辺の弓師による曲線の違いだけでなく、オーダーメイドで新弓から育てた小倉紫峰の優美な張顔に比べて、ひょうたん型に上下が張り出したり、手形が入ったような癖のあるのが二張りほど目につきました。やむを得ない事情で売れ残りを買わざるを得なかったとか、特売価格につられて買ってしまったもので、小村をとって修正したり、入方だから引き込んでくればなんとかなるだろうと思ったものの、結局は愛着が湧かずあまり引かずに放置していたものです。

 驚いたことに、そのうち一張りは、握りの上下で捻れていました。偉く入方で、しかもひょうたん型を矯正したいと、弦掛け直後に調整するうち上成節の辺りで側木が割れ(藤巻補修済)、強すぎる部分の小村をとったことで握りから上は歪みがとれたのに、握りから下方の強い入方だけは残って捻れてみえるのです。どうも気になって仕方なく、再度火入れしてみましたが矯正できませんでした。

 購入時の弓は未完成品である、という認識をする弓人はまれかもしれません。心ある弓師さんなら、たぶん弓の育て方を知らない客には売りたくないでしょう。自分の弓がめちゃめちゃになっていくのに耐えられないに違いありません。しかし、現代の弓具店さんはどうなのでしょうか……。

 経済力さえあればいかなる高価な弓具も揃えられます。しかし、弓引くことの到達点と、その弓具の不釣り合いの愚かしさは、本人ばかりは気づかぬことでしょう。そう考えると、自分の弓歴と、ここまで書いてきた諸々のことについても汗顔のいたりです。

 最近、一張りの弓をみると、その弓師がめざした本来の形はどんなのかと思い、いかに小さくとも狂いがあると矯めずにはおれなくなります。これが「育てる」ことなのかな、と思いつつ真夏にも一汗かいたりします。そして同時に、匠の実力を感じたり、考え方や美意識が見えてくるように感じられたりします。ただ、銘だけにこだわりはありません。その昔は、弓師に銘を打つ権利はなく隠し鋸目を入れ、弓具商が銘を焼印したのでしょうが、熊本県白石の弓師松永氏を訪ねた折り、自分の打った弓も萬儀銘だったとそれを指しながら述べておられました。

 人は得てして自分のことは棚に上げがちですが、弦音もなくぺしゃんと冴えなく一射して、あれこれ下位者に射の欠陥を指摘している高段の方を見受けます。せめて弓人のあいだでは、同じ道を歩む弓友同士として接したいものです。下位上位の区別なく、その求める意識と努力を認めあいたいものです。

 弓が自己完成をめざす道であるというなら、射そのものの向上努力はさておき、昇段をめざす審査のためだけに全国をとび歩くという方は、何をめざしているのでしょうか。称号という権威を求め、高位称号者にへつらうような言動を見、あるいは下位の者に高圧的な姿勢をとるなど見るにつけ、弓を引くこととは何なのかを思います。