今日は、なかなか書けないテーマにあえて踏み込むことにします。若い頃では書けません。初心レベルでは書けません。指導者レベルになっても書けません。私のように、昇段意欲はほとんどなく、ただひたすら巻藁前にたって少しでも良い弓引きになりたいという立場で、やっと書けるテーマかも知れません。

 弓を引くには、道場があることと、弓具師の方々と、そして指導者の下支えが必要です。その上で、自己研鑽の道が開けます。指導者と、師匠とは似て非なる存在です。指導者はカルチャー弓道全盛の中、公共スポーツ施設には必ずおります。射技の基本を指導し、弓道のマナーを伝えます。しかし、師匠とは全人格を通じて弓の心まで伝える、技術を超えた絶対者です。これは重い存在ですから、師を選ぶべきと、いつか述べました。

  弓を引くこととは何なのかを思います。弓が自己完成をめざす道であるというなら、弓人のあいだでは下位上位の区別なく、その求める意識と努力を認めあいたいものです、と前章で書きました。

  私の所属する札幌弓道連盟には、きら星のごとく優れた諸先生がおられます。伸びあいと鋭い離れの、見ているだけでゾクゾクするような射手に出あうと、教えを受けずとも、射を体現するモデルであり、ともに弓を引くだけで多くを学ぶことが出来ます。その射を見て学び、教えを乞うことができることは、実に弓人として幸せです。

  あるいは、自分の射を見られているだけで、それが良射へのインセンティブになるようであれば、実に幸せな師弟関係といえます。そこには、教える、教えられる、という関係ではない、心からの学びたいという欲求が生まれます。最も困るのは、実は教え魔といわれる指導者なんです(笑)。誰彼お構いなく、それぞれの抱いている課題にもお構いなく、目についた欠陥を矯めようとひたすら努力なさいます。人様々ですが、はた迷惑な話です。

 指導とは、ある課題を与えて少し見守る。自分で考えながらトライさせる。迷って邪道に進みそうになったら介添えする、そんなゆとりが必要です。全てを指導者の型にはめて教える事は、成長を止めることにもつながります。後で、あのとき教えられたことがマイナスになって……ということすらあり得ます。

  段位は指導者の適性とは必ずしも一致しません。永く他人の射を見取り稽古し、自分の射を高めようと工夫する中で、誰もが指導する資質を養われていくのだと思います。ただ人によって、上位者からの教えをそのまま伝えようとするか、人にあわせて多くの技術情報の中から個別選択して与えるか、自分なりに「なぜか」を追求した事を伝えるか、または聞かれたことにだけ答えるか……。
 
 体力が衰えはじめ、あちこち故障を起こし、中りがまったくなくなっても、もっと良い弓を引きたいと思います。自分なりの弓の完成(いずれ迎える死の直前、最後の射)に向かって課題をもち、向上を目指しますが、師とはそれを支える存在です。初心段階でも、中級段階でも、それぞれに対して絶対的に正しい教えというのはありません。ただ、弓を初めてから出来るだけ早い時点で、将来伸びる方向への教えを示唆できる師に出あうことは弓人にとって幸いです。

 指導者は必要ですが、道場においてはこれによって徒弟制度の意味合いが生じます。その点、「相互研修システム」は、この弊害がありません。新人でも、結構見取り稽古でいいところを見ています。

  射技指導に関して、「相互研修」という方式があります。札弓連のM先生が指導する講習会では、これに多くの時間を割きます。数人のグループで、お互いに射を見やっこして、ああじゃないかこうじゃないかと、段位も称号も関係なくやるのです。これは多分、企業研修などにおける人材育成・教育訓練手法を取り入れたのだと思いますが、非常に役立ちます。互いに自分が感じたままを指摘し、討論したりそれを試したりし、指摘された内容に対して自分の考え方で反論もします。

 お互いの課題解決や悪癖を矯める努力と手法に、勘違いなどがあったり、無駄な努力があったりした場合、解決の糸口が早期発見できたりします。また、その人がなぜそこを誤ったかの理由も知れて、自分の射技向上にも役立ちます。誤りが、指摘した側にあることも屡々あります。