fjrigjwwe9r2mt_entry:entry_text 私は中学高校大学と10年間バスケットをしてきたのですが、 その基礎基本は、大阪市立淀中学校で植村富夫先生に叩き込まれました。 実は、私は中1の3学期に宝塚に転校したので、淀中にはたった2学期間しかいませんで したが、その2学期間に教えてもらったことが本当に大事なことでした。 シュートの形、ドリブルの技術、ディフェンスのフットワーク等、徹底的に鍛えられました。 当時、私が入学した時の淀中学校は、大阪市は男女とも連続優勝中、男子は大阪府も 優勝、女子は近畿も優勝でした。(当時はまだ全国大会がありませんでした) 1年生の7月には、区の大会があったのですが、その試合で私はデビューしました。 相手は3年生ですが、淀中は途中から1年生が登場するのです。3年生相手に 私はジャンプシュート3本を含む8得点を入れたのです。4月入部からたった3カ月ほどで 他校の3年生と勝負できるのですから、淀中のレベルは相当なものです。 当然、練習はめちゃくちゃしんどいものでした。初めのフットワークだけで倒れそうでした。 ドリブルは左手だけ、パスの投げ方受け方、コートの走り方はもちろん、ディフェンスの 位置取りは何度も何度も教えられました。「ナカジマ〜!」と何度怒られたことか・・・・。 そして試合形式の練習も続くのです。夏休みの練習はホンマ地獄の練習でしたね(笑) 当時の練習は水は飲めなかったので、練習中に「今日は終わったらコカコーラのホーム サイズをいっきに飲むぞ」っていつも思ってましたね。 (コカコーラのホームサイズ・・・・これは50代の人しかわからないですね(笑)) その後、中1の3学期に宝塚の中学校に転校したのですが・・・・ そのレベルの差にびっくりしました。 宝塚の中学校では、1年生は夏休みが終わるま でほとんどボールに触っていないのです。2年、3年の練習をコートの横で声を出して 見ているだけだったようです。2学期からようやくボールを使った練習が始まったというの です。こう言うと自慢しているみたいで嫌なのですが、宝塚の中学校で、私は飛びぬけて 上手かったのです(これはやっぱり自慢ですね(笑)) そんな噂をきいて体育館に私を 見にくる生徒もたくさんいました。 2年生と1対1をしても勝負にはなりませんでしたし、 怒った2年生が私に「腹筋50回!」と罰を与えたつもりでも、そんな腹筋50回は淀中で は毎日やっていたので、すぐにできるので、2年生はよけいに怒っていました。 体育館に女子が見に来てくれるのはうれしいのですが・・・こういうバスケット部の状況に は戸惑うばかりでした。 でも、私の人生で一番女の子にモテたのは、この時期でした(笑) (まあいろいろありましたが、この宝塚の中学校のバスケ仲間は本当にいい奴ばかりで その後の2年間は本当に楽しかったし、この仲間とは今でもよく集まっています) 淀中がなぜ強かったのか? それは顧問の植村先生の指導がよかったからでしょう。 淀中の練習と宝塚の練習の決定的な違いは、ボールをどれだけ触るかなのです。 試合を想定して練習をするかどうかなのです。 淀中の入部初日のことを私はよく覚えています。体育館に入ったとたんにまずボールを 持ってシュートをさせてもらうのです。そして練習の最後には試合をさせられたのです。 まだ入部初日なのに試合です。(だからこそ7月にはもう対外試合に出場できたのです) それに対して宝塚の中学校では、1年生の1学期中はまともにボールを触る練習はなし、 そしてパスの単純な練習を繰り返し、決まったコースのランニングシュートをさせられるの です。淀中では単純なパスの練習はありません。常に試合のように動きながらのパス 練習ですし、シュートも試合形式で上手くなっていくのです。 淀中の植村先生の練習の考え方教え方は、本当にスゴイと思います。 もし私が中学校のバスケの顧問になったら、きっと植村流の指導をしていたと思います。 いえ、実は私は小学校のバスケットの授業でも植村流の指導をしていました。 (まずは一人一個のボールを持ってシュートからです。試合が中心です) 昨日、淀川区の講演会に、淀中の仲間(小学校からの幼なじみ)が来てくれました。 そこで教えてもらいました。 「植村先生が亡くなった」 って。 73歳ぐらい、もう亡くなってしばらく経つ、って・・・・・。 ショックでした。 植村富夫先生のご冥福をお祈りいたします。 ※時々思うのです。 淀中のメンバーは3年生の時、大阪府で優勝しました。 何人かは推薦で強豪校に入っていきました。 もし私もあのまま淀中にいたら・・・・・どうなっていたかな・・・・。 植村先生とも、もっと親しくなっていろいろ話していただろうな・・・・・って。
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