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2015年1月17日
阪神・淡路大震災から20年
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阪神・淡路大震災から今年で20年です。そんなこともあってか、ここ1週間は震災関連の番組が多く放送されました。風化させないためにも伝えていかないといけないことはよくわかりつつも、やはり番組を見るのはつらいものがあります。涙は20年経っても枯れません。この1週間はやはり重い日々でした。


でも忘れていることも多いのも確かです。
震災から8か月後の1995年9月に、「体育科教育」から原稿依頼がありました。
被災地での体育の授業の様子を報告してほしいというものでした。
自分で書いた原稿ですが、読み直してみるとずいぶん忘れていました。

少し長い原稿ですが、
自分のためにもこのブログに残しておきたいと思います。
震災直後はこんな感じだったのです。



〜体育科教育1995年10月号(大修館書店)より〜

阪神大震災で被災した学校での体育授業 〜西宮からの報告〜
            兵庫県西宮市立平木小学校教諭 仲島正教

 1995年1月17日、午前5時46分。ドーンという大きな音、大きな縦揺れに私は目をさましました。そして立ち上がろうとした瞬間、今度は激しい横揺れに私たち家族はあっという間に家具の下敷きになってしまいました。幸いなことに、けが一つせずにそこから私たちは抜け出すことができました。 あの日から8か月が経ち、人も街もようやく元気を取り戻してきました。
 この報告では、私の勤務する平木小など西宮市の小学校で、その間体育の授業がどのように行われていたかをお伝えしたいと思います。

【被害の状況】
 西宮市は、神戸市の東方に位置し、人口42万人の都市で、高校野球で有名な甲子園球場のあるところです。今回の震災では神戸市に次いで被害の大きかったところです。西宮市の被害の状況は、死亡者1010人、倒壊家屋6万世帯、避難者4万5千人と報告されています。また避難所は市内で約200ケ所あり、42校の小学校のほとんどが避難所となっていました。
 被害を小学校関係にしぼってみますと、死亡した児童35人、教職員1人、校舎の破損が激しい所が7校、同じく体育館の破損が激しい所が6校、プール9校、運動場11校となっており、4月の新学期の時点でも、運動場が全面使用可能な学校は半分の21校であり、体育館の使用可能な学校も24校しかありませんでした。
 1月17日、私の勤務する平木小学校のあたりは、震度7の恐ろしさを目の当たりする状況でした。まわりの民家はほぼ壊滅状態、大きなマンションも1階がつぶれて大きく傾き、阪急電車の高架が崩れ、線路が宙ぶらりん。いたる所で電柱が倒れて道をふさぎ、人の行く手をふさいでいました。小学校の校舎は、辛うじて無事だったもの、渡り廊下などは大きなダメージを受けていました。
 その日は約1000人の方の避難があり、運動場には、多くの車とテントが張られ、教室、体育館は、人でいっぱいになりました。すぐ隣の平木中学校も同じ状況でした。この日から8月の下旬まで、220日間の避難所生活が始まりました。

【体育が消えた】
 平木小学校の授業再開は、地震から約2週間後の1月30日でした。学校として機能するには、まだまだ無理な点が多かったのですが、これ以上子どもたちをそのままにはしておくことができませんでした。「学校再開」は子どもたちにとっても、地元の人にとってもひとつの「希望の光であり、復興の印」だったのです。 (西宮市の学校の再開は遅いところでも2月8日までに行われました)
 この日、7割弱の子どもが登校してきました。笑顔いっぱいの子どもの姿はやはり最高でした。学校再開と友との再会に、みんなの力が沸いてきました。心の奥には、友達の死、親戚の死、家が無くなった悲しみなどいろいろ持っていたのですが 「頑張ろう」 という気持ちが、みんなを明るくさせたのだと思います。
 とはいえ、使える教室は全体の3割ほどで、後は避難所として使用されていたので、子どもたちは、その教室にほぼ缶詰という感じでした。その上、体育館はもちろん運動場も使えない状態でした。 始業時間は、遠くから来ている子のことや、通学路の安全の確保等の問題から、9時半始業でスタートしました。 授業時間数は、1日3時間が精一杯の状態で、2月下旬の簡易給食開始で、1日4時間体制がとれるようになりましたが、約2週間の休校に加え、この状態では通常の授業時間数は到底確保できません。授業内容の精選や組替えが各学年で行われました。理科室、家庭科室、体育館、運動場が使用できません。当然それにかかわる教材はできなくなってしまいました。残念ながら「体育」という文字が時間割表の中から消えてしまったのです。

【子どもは動きたい】
 街の中を、瓦礫を積んだトラック、ガス水道の復旧作業の車、救援物資を積んだ車などが行きかい、粉塵が舞い上がる、そんな中で子どもたちは遊ぶこともできずに、家の中や避難所の中に閉じこもる日が続いていました。唯一の運動といえば、水くみだけだったかもしれません。 その子たちが、やっと学校に来れたのに、学校にも遊べる場所がほとんどなかったのです。唯一の遊び場としては、校舎と校舎の間の小さな中庭しかありませんでした。
 時間割表の中からは体育は消えましたが、私たち教師の心の中からはけっして体育は消えていませんでした。それは子どもと体育(運動)との深い結びつきをよく知っていたからです。国語や算数の勉強をしていても、窓の外に見える中庭が空いていれば「ちょっと外へ行こうか」と声をかける先生がたくさんいたのです。そして、10分間の「なわとびタイム」が始まるのです。学校全体としての中庭の割当て時間などは決めませんでしたが、それぞれの先生の判断で中庭がうまく活用されていました。10分、15分ほどの時間で、狭い場所での効果的な運動は何かを考え、次のような実践が行われました。
・「なわとび(短なわ、長なわ)」
特に長なわは、クラス全員が一つになってできるので、運動としての効果
だけでなく、みんなの心を一つにする役目を果たしていたようです。
・「すもう」
普段の授業では、なかなか取り上げないすもうをすると子どもたちは大喜び。
中庭の芝生の上でのすもうはとても気持ちのいいものだったようです。
・「鬼ごっこ」
低学年の定番のようですが、高学年も限られた狭い場所での鬼ごっこは
楽しかったようです。男女仲よくやれました。
・「竹馬」
来年度用に購入していた竹馬がとても役立ちました。竹馬は初めてという子
が多く、興味を持って取り組めました。クラスの人数分竹馬を購入していた
ので、全員が同時にでき、効率よく動けました。
・「一輪車」
学級人数の半分ほどしか台数がなく、また中庭では少しやりにくいようでした。
 以上のような実践が学年ごとに自主的に行われました。運動をしたあとの子どもたちの表情は一様に明るく、やはり「子どもは体を動かしたいのだ」と実感しました。 3月に入ると、運動場のテントが減り、3分の1ほどが使えるようになりました。ボール運動が少しできるようになり、ポートボールやバスケットをするクラスも出てきました。

【4月以降の体育学習】
 西宮市小学校体育連盟では、3月に会合をもち、特に運動場や体育館の使えない学校での体育のあり方についての研修を行いました。
「こんな時だからこそ、子どもたちに、運動にせまる学び方がわかる授業、運動のもつ特性にふれる授業を展開したい。体力は多少低下するかもしれないが、運動に対する真の楽しさや興味がいつまでも続くような指導を心がけたい」と方針が示されました。
 平木小学校を含む3校では、次のような取り組みが4月以降、行われました。
★平木小学校 〔状況・・体育館は避難所で使用不可。運動場は3分の2が使用可能。授業時間は震災前の通常通り〕
 体育科の年間指導計画の入替えを行い、運動場でもできる教材を1学期に集め、体育館での教材は2学期以降にまわした。また、運動場では2学年同時に行うため、一方が鉄棒をすれば、もう一方は陸上運動。一方が砂場を使えば、もう一方はボール運動。というような組合せをつくり、毎週職員室の体育黒板にそれが張り出された。
★上ヶ原小学校 〔状況・・校舎は全壊。運動場に仮設校舎が建てられ、運動場は使用不可。体育館は4月より使用可〕
 週3時間の体育のうち、1時間は体育館を使って器械運動系の教材をし、2時間は近くの関西学院のグランドを借りてその他の教材をする。その2時間は行き帰りの時間も考えて、2時間連続を一コマとする。したがって、体育は週2回ということになる。
★上ヶ原南小学校 〔状況・・校舎は全壊。運動場に仮設校舎が建ち、3分の2が使用不可。体育館は避難所のため6月まで使用不可〕
 週3時間の体育のうち、1時間を「健康の時間」とし、教室での体育学習の時間とした。保健学習をしたり、簡単な教室でできる体操等を取り入れたりした。あとの2時間は運動場を使用した。運動場が狭いので、仮設校舎の間に平均台等の器具を置き有効利用したり、狭い場所でできる教材も工夫した。6月からは体育館の使用が可能になり、健康の時間はなくなった。

【新学力観と体育】
 西宮市小学校体育連盟の会合の中で「こんな時だからこそ、頑張らないといけないのではないか」という意見が出されましたが、その通りだと思います。環境が悪い、器具用具がない、場所がない、だからできないとあきらめるのではなく、どうすればやっていけるのかを考えることが重要なのだと思いますし、それを先生と子どもが一緒に考えていけば、素晴らしい体育学習になると思います。
 上ヶ原小では、関西学院のグランドを借りるということが、その時間をけっして無駄にしないという意識を生み、学年の教師間での教材の共通理解や教具の工夫、指導の方法等が深まり、より協力して取り組めるようになったようです。その意識は子どもたちの中にも同じように芽生えていきました。
 上ヶ原南小では、運動場は狭いけれどサッカーがしたいという子どもの願いが、倒してあったサッカーゴールの小さなわくを利用し、やわらかいボールでのサッカーゲームの誕生につながりました。
 最近どこに行っても言われる「新学力観の学習」は、震災後の体育の学習に当てはまるような気がします。この震災で跳び箱やマットなど多くの体育器具が破損したり、なくなったりしました。私の学校でもたくさんのマットが使えなくなりました。しかし、これは即、器械運動ができない、ということにはつながりません。
 阪神・淡路大震災は、本当につらく悲しいものでした。でも何でもそろっていた私たちに、新たに創り出す喜びを与えてくれました。復旧ではなく復興だといいます。今まで以上に素晴らしいものを体育学習の中にも生み出していきたいものです。

【おわりに】
 被災地の体育はまだまだ満足にいっていませんが、この報告のように少しずつ前に踏み出しています。今後も頑張り続けたいと思っています。
 最後になりましたが、私の小学校は、この夏休みに220日間の避難所の役目を終えました。この間、西宮の学校へも、全国の多くの学校からたくさんのご支援をいただきました。この誌面をお借りしてお礼を申し上げたいと思います。
(1995.9)




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Posted by naka602 at 22:56 | TrackBack (0)
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