肩の療養で弓と離れ、連日数百q運転後の休日は、疲労回復にあてる日常を紹介しました。肩の方もまだ万全とはいえず、たまに弓を手にするのも巻藁前に立つだけです。目標としていた「秋には16kg」を引いてはいますが、肩入れして弓の強さを計るより先に、肩への負荷が大丈夫かなという意識が働きます。

 会における押手肩への圧迫と、離れの衝撃には気を配ります。かなり以前、押手肩のあり方について、師匠から「肩を内側前方に巻込んで据え、肘から手首を逆方向に返して手の内上面を水平に」と教えを受けたことがあります。しかし、当時はその意味が十分に飲み込めず、ただ肩から虎口までを真っ直ぐに押し開いていました。今はその言葉を思い返しながら、しっかりと肩関節を合わせて据えることに留意します。

 シーズンも終盤、やはり試合に出て弓友と再会するのは楽しみです。その際に迷うのは、どの弓で試合に臨むかという点です。昨日(10月12日)の射会には、良く引けた時の貫中久をイメージして、強めの17k gの弓で臨みました。一週間ほど前、初めて巻藁で引き始めたばかりの弓です。

 結果は、言うまでもなく、失敗しました。ただ「会の形に入るだけ」の射では、的中はおろか矢どころも定まりません。半矢にも1本届かず終わりました。反省会で弓友の曰く「弓にぶら下がってたよ」との表現や然りです。

 射会も後半、会で目を閉じ、詰合い・伸びあいだけを意識してみました。すると、会と感じたその位置から、更に1〜2cmほども矢束が伸びるように感じました。最後の一手は、失速することなく皆中しました。改めて、射にとって矢束一杯に伸びあうことの重要性を痛感しました。

 久しぶり的前に立って、色々と感じるところがありました。体力が弓力に劣る場合、まず滑らかな引き分けができません。やっと形ばかりの会に至るなり、伸びあう前に的付けの意識ばかりが先行します。的付けだけで当てようとするのでしょう。弓射は全身で行うものです。心より、目が優先してはいけないと。

 いつもゲストブックに書き込みいただく、剛弓引きの方には敬服します。私の弓は「割り箸みたいな弱弓」ですが、それすらも引けないもどかしさと悲しさが募ります。加齢と身体の衰えをカバーするのは、鍛錬と修練しかありません。

 かつては、多少練習不足でも、それまでの矢数が貯金となっていたのでしょうか、気力と体力とのギャップを感じることはありませんでした。今は、伸び合いの意識を働かせても、筋骨がその通りに働きません。

 引分け時、スムーズな左右両腕の開きがかなわず、勝手はまるで瘧(おこり)病みのように小刻みに断続的な動きをします。さらに、肘が肩の中心線を越えて背後に収まって会に入ろうとするや否や、勝手は勝手に発に向かって緩もうとします。必死で抵抗するとビクを生じます。巻藁前でリラックスした状態では、こんなことは生じません。精神的、身体的緊張を払拭できずに萎縮しているのです。修練がなっていないのです。

 これはカルチャー弓道の始まりか、と自分の意識変化を思いつつ、僅かな練習では維持できなくなった筋力の衰えを自覚します。弱弓を使って負荷を減らし、貫中久だけは求められないものだろうかと、さらに虫の良いことを思いめぐらします ^-^;