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2018年4月24日 |
元気に動き始めました |
それにしても母は、私と姉の仕事の合間に天国に行くという離れ業をやってのけました。私も姉も仕事に穴をあけることはありませんでした。最後の最後まで子ども思いの母でありました。 通夜、告別式には、みなさんお忙しい中、たくさん参列いただき、 本当にありがとうございました。 中学高校時代の友人もかけつけてくれたり、地域の方、職場のみなさん、 教え子も来てくれました。 そして宝塚市長、尼崎市長、宝塚市教育長、尼崎市教育長も 公務の合間にわざわざ参列いただき、恐縮してしまいました。 通夜では、姉がお礼の言葉の中で、 母の教育者としての歩みを話しました。 身内をほめるのはおかしいのですが それはそれは凄い経歴を歩んできた母でした。 本当に偉大な教育者の母でした。 告別式では、私が 母の子育てについて話しました。 姉と私がどんなふうに育てられたのか、 どんな言葉をかけられたのかを話しました。 本当に尊敬できる母であり、自慢の母でした。 式場内には、 母が昭和37年に作った「研究発表資料」を貼らせていただきました。 今から56年前の資料です。模造紙に母の手書きできれいにまとめて 書いてありました。保存状態もよく、内容は「特別支援教育」のことで 今でも十分通用するものだと思います。 また昭和37年「養護学校教諭免許」(兵庫県第1号、これは全国でも第1号) 昭和17年「国民学校訓導」 昭和33年「尼崎養護学校着任」(創立時) も掲示しました。 母は女学校を卒業してすぐに教師(助教)になりました。16歳の時です。 それから定年退職まで勤め、その後も75歳まで学校に通いました。 なんと60年間、教師を続けました。凄すぎます。 その間に、東京教育大学、神戸大学、大阪教育大学、佛教大学に 内地留学もしています。この時代にこれも凄すぎます。 母は女子教育の先駆者でもあると私は思います。 また東井義雄さんや河合隼雄さんとも一緒に仕事をしたというの ですからびっくりです。 そんな仕事人間だったのに 母としても、姉と私をこんなふうに育ててくれたのですから 本当に凄い人だと思います。 ここ5年ほどは、ずっと病院暮らしでしたが ベッドの横には、いつも本があり、ラジオがありました。 ラジオではNHKの高校講座も聴いていました。 ここ数か月、身体は徐々に弱ってきましたが、心はしっかりして おり、政治状況もちゃんと知っていました。 最後の1週間は、呼吸が苦しくなり、死因は急性呼吸不全という ことですが、老衰ということでしょう。幸せな逝き方でした。 みなさん、本当にありがとうございました。 |
母(93歳)の通夜(22日)告別式(23日)も無事に終わり、今日の朝から、私は伊丹市と大阪・豊能地区の初任者研修会、姉は阪神地区議長会と元気に動き始めました。きっと母も天国から「しっかり頑張りなさい」とエールを送ってくれていると思います。
Posted by naka602 at 22:08
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