fjrigjwwe9r2mt_entry:entry_text 今日は、淡路島の野島小学校に行ってきました。 校庭から海の見える児童数30名足らずの小さな学校です。 あの大震災(1995年)から14年、ここは震源地、あの野島断層がある所です。 当時の新聞に、こんな記事が載っていました。 (1995年3月6日 朝日新聞テレビ欄の番組解説) ニュースステーション ★ABC夜10:00 阪神大震災の震源地のすぐ近くに位置する、淡路島・北淡町の野島小学校。同校の保健室は震災後、被災者のための診療所となった。同校に着任して2年目の養護教諭、出口かおりさんは、子どもたちが気軽に入ってくることができる保健室を再開したいと願っている。出口さんも西宮市の自宅で被災したが、毎日船で淡路島に通っている。保健室の窓から見た島の子どもたちの様子をリポートする。 震災から1ヶ月半経った3月6日の夜、テレビの画面に私は釘づけになりました。 「あっ、出口さんだ! 出口かおりが映っている!」 出口かおりさん、21歳、私の教え子です。 先生第1号の教え子です。 新任2年目の養護教諭の奮闘ぶりが、あの久米宏のニュースステーションで特集されていたのです。野島小学校では、校長先生と子ども一人が犠牲になりました。そんな状況で弱冠21歳の養護教諭がどうしたら子どもたちが元気を取り戻せるか、必死になって取り組んでいる様子がテレビから流れてきます。驚きと感動で声が出ません。 そして診療所となって使えなかった保健室が2週間後、ようやくもどってきます。医薬品などを片付け、子どもたちが使えるように整理する出口先生。そして最後に画用紙を切って文字を作っています。それを運動場が一望できる保健室の上の窓に貼り付けました。 「大きな5つの文字」が運動場で遊ぶ子どもたちに呼びかけます。 元 気 が 一 番 その映像に涙が出てしまいました。 今日はその出口さんが勤務していた野島小学校に行ってきたのです。 当時80数名だった児童数は今30名足らずになり、来年は統合のため廃校になるそうです。14年前、テレビで見た野島小学校を実際に訪れ、感慨深いものがありました。出口さんが赴任して1年目、学校のビワを私に送ってきてくれたのですが、そのビワの木も立派に成長していました。 そして、あの保健室にも入れてもらいました。保健室からは運動場、そして海がよく見えます。ここに 「元気が一番」 を貼ったのだなと、感動しながら眺めていました。 若手教師パワーアップセミナー「元気が一番」塾 そうなんです「元気が一番」塾、その名前の由来は、この保健室の窓だったのです。 あの5文字に感動し、10年後、私は自分のセミナーにつけさせてもらったのです。 出口かおり先生は、その後尼崎の学校に転勤し、結婚して今は横浜で養護教諭を続けています。7歳と2歳の子をもつお母さん先生です。かわいい写真の年賀状が毎年届きます。
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