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2011年9月30日
教え子にごちそうになりました。
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今日は、3人の教え子と会いました。
 
三田市の仕事の帰りに、教え子のA子が働く 「福祉の店」 に寄りました。
ここは、自立支援法に基づく地域支援センターとして、野菜や小物や衣服等の販売や
ランチ、喫茶のお店として営業するともに、2階は作業所になっています。
A子は、私が30歳の頃に担任した子どもで、彼女は今は30代半ばになりました。
小学生の時から入退院を繰り返し、体調のすぐれないことが多く、なかなか仕事にもつけ
ない状況でしたが、この店に入ってから元気に働く姿がよく見られるようになりました。
4年ぶりの再会でしたが、元気そうで本当によかったです。
お店に寄ったのは、お昼すぎだったので、そこでランチをいただきました。
A子に接待してもらい、おいしいランチを食べました。新鮮な野菜に魚のフライに栗ご飯、
おみそ汁もついてたったの500円、お得な価格です。
食べ終わってお勘定をしようとすると、A子が
「センセイ、今日は私に出させてください。私も稼いでいますから」
「だって・・・・せっかく自分で稼いだお金なのに・・・・」
「大丈夫ですよ。これは私からの小さな恩返しです」
「・・・・・そうかあ・・・・・・・・・じゃあ甘えるわ。ごちそうさま」
 
この作業所でのA子の稼ぎは、ほんの少しです。
自立支援の作業所では、一日働いても何百円何十円単位なのです。
そのわずかな稼ぎからごちそうしてくれたのです。
本当にうれしかったです。教え子から初めてごちそうになりました。
「ありがとうA子、本当にありがとう」
 
 
 
夜は、私が40代の時の教え子2人(現在24歳)と飲み会です。
当時同僚だったS先生から、
「偶然、B男とC男と出会ったので、一緒に飲みませんか」
という誘いを受け、焼き肉屋さんに4人で出かけました。
B男とC男は、家庭的に大変厳しい状況の子どもでした。
B男の家には一番多く家庭訪問に行きました。C男は担任ではありませんでしたが、
彼ともつながりは深かったです(彼は仲島先生にはめちゃ怒られたって言います(笑))
2人とも問題をよく起こしましたが、根は本当に優しい奴らでした。
 
あの家庭状況では、普通は荒れるのです。そんなめちゃめちゃ厳しい家庭環境でした。
でもあいつらは、荒れることもなく小中学校と過ごしていったのです。
これはある意味奇跡的なこととも言えるぐらいでした。
あいつらの周りにはいい仲間がいました。助けてくれる仲間、支えてくれる仲間が常に
いたのです。 そういう仲間の気持ちに、あいつら2人は応えようとしていました。
 
B男が言ってくれました。
「『水平社宣言』の授業のことはよく覚えています。あの授業は忘れられない」
 
あの授業でB男はこんな発言をしていました
「どんな人であっても、その人を認めることが大事だと思います」
 
 
今、2人とも自立し、しっかり働いています。 B男は西宮、C男は神戸で暮らしています。
懐かしい話だけでなく、B男の両親が亡くなったことやC男のおじいちゃんの話など、いろ
んな話を聞かせてもらいました。生ビールを飲みながら楽しい時間が過ぎていきました。
B男は、私とS先生の焼き肉を焼いてくれますし、C男はビビンバなどを小皿に分けてくれ
ます。うれしいなあ本当に・・・・。 
 
「それにしてもセンセイ、小さくなったなあ」
「違う! おまえが大きくなっただけや」
そう言って180cmを超えるB男とC男を抱きしめてから、帰路につきました。
 
ホンマ幸せな一日でした。
 
 
 
 
 

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2011年9月28日
これは危ない
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大阪の教育が心配です。
橋下知事率いる維新の会の強引なやり方には気をつけないといけません。
 
こんな新聞記事を見つけました。(朝日9月27日朝刊)
 
維新「世論調査で支持」×教育長「公平性に疑問」 という見出しで
維新の会の議員と教育長のやり取りです。(新聞の原文のまま一部抜粋)
 
・・・・・代表質問に立った維新の会の○○府議は、会が民間業者に発注した世論調査の結果をパネルで示し、条例案の「学区撤廃」 「定員割れを続けた高校の統廃合」 「能力不足教員の免職」 「校長ら管理職の公募」などの項目について、いずれも過半数が賛同したと主張。
ここで○○教育長が「反問権とは申しませんが」と答弁を始めた。
「質問にあたり、現状説明がどこまでなされたのか」と調査の公平性を疑問視。
「例えば校長の公募について、質問は 『(管理職は)教員からのみ選任される理由はない。今後は教員に加え、外部の有能な人材も広く公募する』 とある。こういう質問なら私も賛成と答えるし、そもそも府は既に民間人校長を導入している」 「我々が問題視しているのは、すべての校長・副校長を任期付き公募の対象にする条文だ」・・・・・・・
 
 
私は大学の卒論で「質問紙法」を勉強しました。
そこで学んだことは、広くいろいろな人に調査する場合の質問の文言は、正確で、
客観的で、中立でないといけない。偏った発問はいけない、ということです。
 
今回の「維新の会」の世論調査は、「こっちの方がいいでしょ」 という誘導的な発問に
なっています。これでは正確な世論調査とはいえません。ある意味「だまし」とも
いえます。これを堂々と主張して、府民に訴えるやり方は、明らかに間違っていますし、
それに府民は気づかないといけません。
 
橋下知事の訴え方はとても上手いです。一般府民にうまく語りかけていくので、
ついついその気になってしまうのかもしれません。でもそれをうのみにするのではなく
冷静な判断が求められます。
「リテラシー」という言葉があります。
リテラシーとはもともと識字率のことを指してしましたが、そこから物事をしっかり読み
解き、活用する力、つまり与えられた物をそのまま受け入れるのではなく、冷静に判断
する力が必要という意味で使うようになりました。(単に能力や発信力という意味で使わ
れることもありますが・・・)
例えば「メディアリテラシー」というのは、メディアが発する情報は全て正しいと思い込む
のではなく、少し批判的に見ながら冷静な判断をしないといけない、ということです。
ということは、今回はまさに 「橋下リテラシー」 です。
 
橋下知事だからこそ改革が進みそうだ、という期待感は多くの人にあるでしょう。
私も橋下さんには本当は期待したいのです。でも民主主義は多数決と決めつけて、
数で押し通す政治はやはり怖いですし、それを教育に持ってくるのはもってのほかです。
教育は「中立性」が保たれなければならないのです。
私は、維新の会が提案する「教育基本条例案」に反対です。
 

 
 
※メディアリテラシーということからすれば、この朝日新聞の記事もすべて
 うのみにしてはいけないということは、おさえておきたいと思います。
 
 

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2011年9月26日
大矢勇気 3連覇!
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9月25日(日)篠山市で 「第23回全国車いすマラソン大会」 が行われました。
そのハーフマラソン(レース・クラス2)で、大矢勇気が3年連続優勝を果たしました。
大矢勇気3連覇です。
 
大矢勇気さんのことは、このブログでも何回か書いたのですが、小学校の教え子です。
彼は高校生の時、事故によって、車いす生活になりました。
その後、車いすアスリートとして岡山国体をはじめ、各種大会で好成績をおさめるように
なっていきました。
 
「センセイ、俺は、ロンドンパラリンピックをめざす」
そんな夢を語ってくれるようになり、
私も 「ロンドンに応援に行くぞ」 
そう言いつつ、現実は厳しいだろうなと思っていました。
ところが今年の5月の選考会で、
なんとロンドンパラリンピック標準B記録を出したのです。
これは本当にロンドンか、
と思っていた7月の暑い日に、訃報が届きました。
彼のお母さんがガンで亡くなったのです。
 
 
14年前、車いすになり自暴自棄になっていた彼を、お母さんは献身的に介護し、
励まし続けました。そして彼は少しずつ前を向いて生きるようになったのです。
「オカンのおかげでここまでこれた」
いつもそう言って母を大事にしていた彼でした。
そんな最愛の母が亡くなったのです。
それも大事な選考会の日でした。(ロンドンの夢は散りました)
 
 
今回のレースは、お母さんが亡くなってからの復帰戦になりました。
「オカンがきっと応援してくれる」
そんなお母さんの後押しで、ハーフマラソン3連覇の偉業を達成しました。
3年連続優勝ですよ、全国3連覇です。 ホンマにあいつはスゴイ奴です。
 
来月は、大分県での車いすの国際レースに出場します。
「ロンドンはあきらめたけど、次のブラジルのパラリンピックをめざすのか?」
と聞くと、彼は
「ブラジルは遠くで大変やから、あんまり行きたくないねん。
今はそれよりアジア大会をめざします」
と応えてくれました。
 
私もブラジルは無理ですが、アジア大会には、ぜひ応援に行ってやろうと思っています。
 
「がんばれ大矢! 負けるな勇気!」
 
 
 

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Posted by naka602 at 23:46 | TrackBack (0)


2011年9月24日
植村富夫先生
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私は中学高校大学と10年間バスケットをしてきたのですが、
その基礎基本は、大阪市立淀中学校で植村富夫先生に叩き込まれました。
 
実は、私は中1の3学期に宝塚に転校したので、淀中にはたった2学期間しかいませんで
したが、その2学期間に教えてもらったことが本当に大事なことでした。
シュートの形、ドリブルの技術、ディフェンスのフットワーク等、徹底的に鍛えられました。
当時、私が入学した時の淀中学校は、大阪市は男女とも連続優勝中、男子は大阪府も
優勝、女子は近畿も優勝でした。(当時はまだ全国大会がありませんでした)
 
1年生の7月には、区の大会があったのですが、その試合で私はデビューしました。
相手は3年生ですが、淀中は途中から1年生が登場するのです。3年生相手に
私はジャンプシュート3本を含む8得点を入れたのです。4月入部からたった3カ月ほどで
他校の3年生と勝負できるのですから、淀中のレベルは相当なものです。
 
当然、練習はめちゃくちゃしんどいものでした。初めのフットワークだけで倒れそうでした。
ドリブルは左手だけ、パスの投げ方受け方、コートの走り方はもちろん、ディフェンスの
位置取りは何度も何度も教えられました。「ナカジマ〜!」と何度怒られたことか・・・・。
そして試合形式の練習も続くのです。夏休みの練習はホンマ地獄の練習でしたね(笑)
当時の練習は水は飲めなかったので、練習中に「今日は終わったらコカコーラのホーム
サイズをいっきに飲むぞ」っていつも思ってましたね。
(コカコーラのホームサイズ・・・・これは50代の人しかわからないですね(笑))
 
その後、中1の3学期に宝塚の中学校に転校したのですが・・・・
そのレベルの差にびっくりしました。 宝塚の中学校では、1年生は夏休みが終わるま
でほとんどボールに触っていないのです。2年、3年の練習をコートの横で声を出して
見ているだけだったようです。2学期からようやくボールを使った練習が始まったというの
です。こう言うと自慢しているみたいで嫌なのですが、宝塚の中学校で、私は飛びぬけて
上手かったのです(これはやっぱり自慢ですね(笑)) そんな噂をきいて体育館に私を
見にくる生徒もたくさんいました。 2年生と1対1をしても勝負にはなりませんでしたし、
怒った2年生が私に「腹筋50回!」と罰を与えたつもりでも、そんな腹筋50回は淀中で
は毎日やっていたので、すぐにできるので、2年生はよけいに怒っていました。 
体育館に女子が見に来てくれるのはうれしいのですが・・・こういうバスケット部の状況に
は戸惑うばかりでした。
でも、私の人生で一番女の子にモテたのは、この時期でした(笑)
(まあいろいろありましたが、この宝塚の中学校のバスケ仲間は本当にいい奴ばかりで
 その後の2年間は本当に楽しかったし、この仲間とは今でもよく集まっています)
 
 
淀中がなぜ強かったのか?
それは顧問の植村先生の指導がよかったからでしょう。
淀中の練習と宝塚の練習の決定的な違いは、ボールをどれだけ触るかなのです。
試合を想定して練習をするかどうかなのです。
淀中の入部初日のことを私はよく覚えています。体育館に入ったとたんにまずボールを
持ってシュートをさせてもらうのです。そして練習の最後には試合をさせられたのです。
まだ入部初日なのに試合です。(だからこそ7月にはもう対外試合に出場できたのです)
それに対して宝塚の中学校では、1年生の1学期中はまともにボールを触る練習はなし、
そしてパスの単純な練習を繰り返し、決まったコースのランニングシュートをさせられるの
です。淀中では単純なパスの練習はありません。常に試合のように動きながらのパス
練習ですし、シュートも試合形式で上手くなっていくのです。
淀中の植村先生の練習の考え方教え方は、本当にスゴイと思います。
もし私が中学校のバスケの顧問になったら、きっと植村流の指導をしていたと思います。
いえ、実は私は小学校のバスケットの授業でも植村流の指導をしていました。
(まずは一人一個のボールを持ってシュートからです。試合が中心です)
 
 
昨日、淀川区の講演会に、淀中の仲間(小学校からの幼なじみ)が来てくれました。
そこで教えてもらいました。
「植村先生が亡くなった」 って。 
73歳ぐらい、もう亡くなってしばらく経つ、って・・・・・。
ショックでした。
 
 
植村富夫先生のご冥福をお祈りいたします。
 
 
 
 
 
※時々思うのです。
 淀中のメンバーは3年生の時、大阪府で優勝しました。
 何人かは推薦で強豪校に入っていきました。
 もし私もあのまま淀中にいたら・・・・・どうなっていたかな・・・・。
 植村先生とも、もっと親しくなっていろいろ話していただろうな・・・・・って。
 
 
 
 
 
 

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Posted by naka602 at 22:14 | TrackBack (0)


2011年9月20日
敬老の日
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18日〜20日 またまた沖縄に行ってきました。
 
・・・のはずでした。 今夜はその沖縄ブログを書く予定でした。
沖縄では友人とまた一緒に飲めるはずでした。
でもあの台風15号のせいで・・・・・沖縄行きはキャンセルになりました(涙)
 
しゃあないですね、自然には勝てませんわ。それにしても今回の台風は迷走していま
したね。結果的には沖縄に行っていても大丈夫だったみたいです。ホンマ残念です。
明日には、四国、近畿、東海と近づくようですが、どうか被害が出ないことを祈ります。
 
 
沖縄に行けなかった分、家でゆっくり過ごしました。
19日の敬老の日には(私たちにはどうしても敬老の日は9月15日というイメージです)
娘と一緒に、87歳になったおばあちゃんとランチに行きました。
おばあちゃんの行きつけのレストランに3人で行くと、ウエイトレスさんが笑顔で
挨拶をしてくださいました。
 「おばあさまにはいつもお世話になっています。褒めていただいたり、アドバイスを
 うけたりと、本当に感謝しています。」
ああ、ここでも、おばあちゃんは褒めているんだなって思いました。
以前入院していた時も、若い看護師さんを励ましていましたからね。
ホンマおばあちゃんらしいと思います。
(私もそうやって育てられました)
 
おばあちゃんが、私たちをウエイトレスさんに紹介してくれました。
「息子と孫です。親子孫、3代でランチです。 孫、かわいいでしょ」
おばあちゃんのうれしそうな顔を見ていると、
敬老の日に、
ちょっとだけ親孝行ができたかなとうれしく思いました。
 
そんなランチに行こうと、私を誘ってくれた優しい娘にも感謝です。
 
 
 
 

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Posted by naka602 at 22:41 | TrackBack (0)


2011年9月13日
酔ってしまいました。
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今日は、午後から西宮市の保育士研修会でした。
その中に、教え子(24歳)が一人参加していました。
あの幼かった子が、きれいなお嬢さんになって、目の前で聞いてくれているのです。
ちょっと恥ずかしかったです(笑)
 
実はこの子は、大学の時にも私の授業を一度聞いてくれていました。
「大学の時に聞いた話もあったけど、先生になってから聞いてみると、また全然違った
感覚で聞けました。途中で泣きそうでした」
・・・・・・・・ホンマうれしい感想でした。
 
夜は、この子と他に2人の教え子が来て、4人で飲み会です。
辻さん・・・保育所の先生  広瀬さん・・・保育所の先生  片岡さん・・・幼稚園の先生
そうなんです、みんな先生になっているのです。
なんかうれしいですね、本当に。 
教え子たちがこうやって先生になってまた会いにきてくれて一緒に飲めるのです。
これを 「教師冥利に尽きる」  これを 「幸せ」 って言うのでしょうね。
 
あの 「15m走」 の授業のことを覚えてくれていました。
あの 「修学旅行物語」 や「マラソン世界記録への挑戦」 のことも覚えてくれていました。
懐かしい話がいっぱい出てきました。
 
楽しくて、うれしくて・・・・ついつい飲み過ぎて・・・酔ってしまいました。
 
 
この子たちがいた小学校は、あの阪神大震災で出来た学校です。
埋立地に、復興住宅やマンションが建ち、急きょ出来た新設校でした。
開校当時、私が担任した5年生は、1組20人と2組21人の計41人でした。
私の5年2組は21人いましたが、なんと20校から集まってきた子どもたちでした。
そんなバラバラの子どもたちと一緒に学校づくりを始めていきました。
開校当時は41人だった5年生が、その後どんどん転入生をむかえ、6年生の卒業時
には、なんと72人に増えていました。
 
震災で傷心だったからこそ、バラバラだったからこそ、転入生が多かったからこそ、
この子たちのつながりは強いものとなっていきました。
今も、とっても仲よしの子どもたち、いえ大人たちです。
 
私はこの子たちが卒業した後、教育委員会に入ってしまいましたので、
この子たちが私の最後の教え子になりました。
 
 
今夜は、ホンマ幸せな時間を過ごすことが出来ました。     
 

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Posted by naka602 at 23:27 | TrackBack (0)


2011年9月8日
京セラドーム大阪
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今夜は、京セラドーム大阪(大阪ドーム)での、広島カープ戦でした。
甲子園観戦では、9割以上の勝率ですが、京セラドームではどうかなと少し心配して
いましたが、9−3の快笑、いえ快勝でした。
 
今日は、お世話になっている会社の方々を中心に総勢10名で応援に行きました。
そして、キャッチャーの藤井選手の奥様と娘さん(小2)も隣に座るということで、
それなりの準備をして行きました。
それなりとは・・・「藤井」というプレートを10枚つくり、藤井選手が打席に立つたびに10名
が「藤井」のプレートを出して応援しました。「藤井」のプレートの裏は「打て」と「男前」
になっていますので、それを交互に出しながら声援を送りました(TVに映ったかな?)
 
この日私は、本当は狩野選手のユニホーム(99番)を着て行く予定でしたが、
藤井親子が横に座るということで急きょ、藤井選手のユニホーム(50番)にしました。
小2の娘ちゃんも、50番のユニホームを見て、喜んでくれたようです。 (ヨカッタ!)
藤井選手はこの日はノーヒットでしたが、逆転のきっかけになる四球を選びましたし、
エース能見をうまくリードしていましたので、裏の立役者でした。
 
9回には、狩野選手も守備で登場して、私一人盛り上がっていました。(満足!)
(もちろん「狩野」のプレートもつくっていました)
 
 
やっぱりライブはいいし、みんなで応援に行くと本当に楽しいですね(笑)
みんなで歌う「六甲おろし」は、最高ですわ。
ヒーローインタビューもいいですよ。スポーツニュースでは一部しか放送されませんが、
おもしろいことをいっぱい話していますからね。この日も平野選手と関本選手の
ヒーローインタビューはホンマおもしろかったですよ。大笑いですわ。
 
さあ、明日からは首位ヤクルト戦です。
この調子で、がんばれタイガース!
 
 
※藤井私設応援団?に感激していただいたのか、藤井夫人から
みんなに「男前藤井オリジナルタオル」をいただきました。ヤッター!
 
 

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Posted by naka602 at 06:55 | TrackBack (0)


2011年9月7日
燕温泉スキー場
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今日は、京都府亀岡市の小学校の校内研修に行ってきました。
実はこの小学校の教務主任の高橋先生とは、もう出会ってから35年にもなります。
 
出会った当時、私が大学生で、高橋くんが高校生で、
新潟県妙高高原の燕温泉スキー場の旅館で、一緒にアルバイトをしていた仲間です。
正確にいうとアルバイトではなく、居候です。
 
居候とはだいたいこんな生活でした。
5:00〜10:00  掃除をして、朝食準備と後片付け等  
10:00〜11:00 自由時間 ここでスキーに行きます。
11:00〜14:00 昼食準備と後片付け チェックアウトの部屋の掃除等
14:00〜16:00 自由時間 スキーに行きます。
16:00〜22:00 夕食準備と後片付け 掃除等 
 
つまり仕事をしながら、自由時間をもらい、その時は大好きなスキーが出来る。
アルバイト代はないけど、食事付きでただで泊まれる、というのが居候です。
スキー大好き人間が、居候をしながらスキーの技術をつける、
そういうことが流行っていた時代です。
 
年末年始はとても忙しいのですが、少し時期がずれるとお客さんの数は減ります。
そんな時は、一日中スキーをしています。リフト代は無料で乗り放題です。
旅館の若旦那はスキーがめちゃくちゃ上手いので、そういう日は居候連中を講習して
くれるのです。これで、すごくスキーが上達するのです。
 
燕温泉スキー場には、「坊主落としゲレンデ」 という崖のような急斜面のゲレンデが
ありますが「ここを30本滑れ!」 そんな無茶な練習もしましたし、時には、スキー板1本
で滑らされるということもありました。でもそのおかげで私は急斜面が得意になりました。
スキー技術をあげるのは居候が一番よかったのです。
 
燕温泉スキー場は、由緒あるスキー場です。それは日本でスキーが伝えられた最初の
スキー場だったのです。日本のスキーの発祥地ということです。
ここはすごく雪深い所です。積雪量5mは当たり前で、一晩で家が埋まるぐらい降る時も
ありました。5月の連休でもまだまだ雪はいっぱいありました。
このスキー場には、ゲレンデは2つ、リフトも2機しかありませんが、雪質は抜群で通が
好むスキー場として知られていました。
 
燕温泉スキー場へ行くのはとても大変です。なにしろ赤倉温泉スキー場のリフトを3本
乗り継いで上がり、関見トンネルを越え、そこから徒歩40分です。当時は大きなリュック
とスキー板を担ぎながら雪道を歩くので、本当にしんどかったです。
(お客さんはスノーモービル等で迎えはあるのですが、居候はありません)
でも帰りは、燕ゲレンデからから赤倉ゲレンデの下までずっと滑って降りれるのです。
 
 
そうそう昭和53年の冬、私はここで、あの「大竹しのぶ」と大接近しました。2mです。
ホンマかわいかったですね。
 
 
そんな青春の思い出の燕温泉スキー場も、スキー人口の減少には勝てずに
2007年に廃止になってしまいました(涙)
 
さびしいなあ本当に・・・・・・・・・。
 
 

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Posted by naka602 at 23:35 | TrackBack (0)


2011年9月4日
想定外
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台風12号がやっと去っていきました。
のろのろ台風が各地に甚大な被害をもたらしました。
 
私は、2日3日と仕事で鳥取県に行く予定でしたが、台風のために講演会は中止になり
ました。気象情報を見ていると、今までに仕事で行った市や町がたくさん出てくるので
よけいに気になってテレビを見ていました。
 
予想をはるかに上回る雨量に各自治体の判断も難しかったようですが、避難勧告を出し
ていない地域での犠牲者の報道には心が痛みました。
ただ「なぜ避難勧告を出さなかったか」と批判するのは簡単ですが、いざその状況になっ
た時の判断は難しいものです。そのあたりの役所の立場には同情するところがあります。
でも、「想定外だった」 とか 「過去にはなかった」 というコメントには、やはり疑問符は
つきます。3月11日のことであれだけ想定外のことが起きたのですから、役所はもう少し
想定外を考えておくべきだったと思いますね。
 

最近の役所の体質はずいぶん変わってきていますが、
私が役所勤めの時に、一番嫌だった言葉は 「前例がない」と「予算がない」でした。
新しい取り組みをしようとしている時に、この言葉を言われると、
どれだけがっかりしたことか・・・・。
 
30歳の頃、私が勤めていた学校で、子どもの交通事故死を経験しました。
学校の前の道路は、ダンプカー等の大型車の交通量も多く、信号無視の車もあり、
非常に危ないので歩道橋が必要と訴えていたのに、なかなか役所は動いてくれま
せんでした。そして子どもが学校の目の前で亡くなりました。
その後、危険ということで歩道橋がついたのです。
あの子の命が引き換えになったのです。 それでは、遅いんじゃ!
 
役所の人間は、部署の異動もあり、無難に引き継ぐことが多いのですが、
前例にこだわらずに、今までの一回りも二回りも大きく想定して、できるだけ
想定外をなくす努力はしてほしいと願いたいのです。

 
 

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Posted by naka602 at 07:17 | TrackBack (0)