第一章
砂村新左衛門の生涯
越前新村時代
 
 

 新左衛門は慶長六年(一六〇一年)越前国の新村近く水落 (現在の鯖江市新町、水落町)というところで生まれました。新村は、新左衛門の伯父にあたる福岡新兵衛(初代)という者が、九頭竜川上流の砂河原の荒地であった横越と下新庄の間の砂畠あるいは砂畑と呼ばれていたところを、慶長年間の初期(安土桃山時代末期)の頃開拓し、後に新と名付けた村でした。慶長三年(一五九八年)には太閤検地を受け、高百八十石であったとされています。初代新兵衛の弟初代新左衛門は兄の開拓事業を手伝い、結婚した後に新村から少し離れたところに分家を設けました。初代新左衛門(砂村新左衛門の父)は兄の開拓地管理を手伝いながら、新村の田畑で耕作をしていました。新村の田畑はすべて新兵衛家名義になっていましたので、新左衛門家は小作農家でもあったわけです

 初代新兵衛の祖父は戦国大名朝倉義景の家臣福岡三郎左衛門石見守だったのですが、三郎左衛門は、義景が織田信長に追われて自害した後、義景の娘達を連れて逃げる途中自刃に追い込まれました。このためその子龍田は浪人となります。その龍田の子が新兵衛、新左衛門兄弟だったのですが、二人が成人したときの身分は既に武士ではなく農民であり、新田開拓者となって新天地を創ることを目指していたのです。そして辿り着いたのが砂畑だったのです。

 初代新左衛門が分家の主となって間もなく長男が生まれ、続いて次男、三男が生まれます。その後、初代新左衛門は若くして世を去り、長男政次が若くして二代目新左衛門を名乗ることになりました。そして次男は新右衛門、三男は三郎兵衛を名乗ることになります。

 新村の経営は易しいものではなく、耕作地から得られる収入も安定したものではありませんでした。それは初期の開拓地にはつきものの苦労でしたが、兄弟三人の家族を十分に養うのは大変なことでした。長男の政次改め新左衛門は早くに結婚していましたが子供はできませんでした。新左衛門は農業よりも開拓地の改良に興味を持つようになっていきます。農民ではありましたが先祖が武家だということもあってか、教養もあり研究心が盛んで、「どうすれば洪水から田畑を守れるのか」「どうすれば耕作地に必要な水を安定的に確保できるのか」という、いわば現代で言う土木工学に強く興味を持っていきました。

 新左衛門はその後、多くの新田開拓、築地に関わりますが、その関わり方は他の開拓者とは若干異なります。各地に人名の付された新田は数多くありますが、ほとんどは出資者の名前です。新左衛門の場合は純粋に自己資金を投じて作った新田は一箇所だけでした。新左衛門は多くの場合、技術者として新田開拓に関わったのです。

 新田開拓に必要な主な技術は、石垣などを組んで堤防を作ること、木材石材を組み合わせて樋門を作ることでした。海岸の場合、これらは潮除堤とか潮除樋と呼ばれました。そのほかに農業用の水路を作り、そこに橋を架けたり、貯水池を作ったりすることも技術を要することでした。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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