越前三国時代
当時越前は何度も洪水に見舞われ、これが藩の財政を悪化させる大きな要因になっていました。そしてちょうどこのとき新左衛門の大きな転機になったのが新しい藩主松平伊予守忠昌の越前(現在の福井市)着任でした。忠昌は徳川家康の孫(結城秀康の子)で、前藩主の兄忠直が失脚したあとに藩政立て直しのために家康に命じられて赴任したのです。既に藩の土木工事を請け負うことで実績を上げていた新左衛門はすぐに忠昌の目に留まります。国土を保全し災害から守ることは喫緊の課題であったからです。新左衛門が担当する工事は河川の土手を修理したり、がけ崩れを予防したりする、いわゆる補強工事が主なものでした。忠昌と新左衛門はともに二十歳代半ばで年齢が近く、話が合うということもあって、忠昌は新左衛門を大いに重用するようになりました。
そして新左衛門は働き口を求めて九頭竜川下流の三国 (現在の坂井市三国町)に赴きます。農業以外の収入源を求めたという意味では、いわば「出稼ぎ」だったわけです。しかし彼には志がありました。三国湊は古来九頭竜川とその支流を用いた水運の拠点でしたので、新村あたりとも航路でつながっていました。その後、三国は北陸以北の地と京大坂を結ぶ通商の一大拠点の湊町として栄えます。戦乱の時代に終わりが告げられ、徳川の支配が安定に向う頃、通商は一層盛んになっていきます。いわゆる「北前船」が北陸から下関、瀬戸内海を経て大坂と結ばれた航路を盛んに往来して各地の産品を運びました。その中でも最も多い積荷は水産物でしたが、石材や木材も大変重要なものでした。当時三国には石材木材で巨万の富を得た多くの商人や廻船問屋が拠点を構えていました。土木工事に欠かせない木材や石材を扱う仕事を行うには最適の地だったのです。ここで彼ら商人の下請けをしたり、土木工事請負をしたりしながら、石材の切り出しや植林などの知識を獲得し、新地開拓に必要な土木技術を磨きました。
忠昌の治世安定化の成功に連動して業績を挙げた新左衛門は三国に別宅を構え、そこに妾を住まわせます。本妻には子供はできませんでしたが妾にはすぐに男の子ができました。また忠昌の許しを得て、砂村という名字を名乗ることになりました。妻は新村近くに置いてきたままでしたが、決して妻や家族を忘れてしまったり疎かにしたりしていたわけではありません。自分が故郷を離れた地で好きなことができるのも、家族が家や農業を守ってくれていたお陰であることはよく承知していました。稼いだ金や土産物を持ってたびたび故郷に帰っていましたから、彼は家族、特に弟達から絶大な信頼を得ていました。「将来は今の貧農から脱して兄のようになりたい」という、弟達の憧れの対象になっていたのでしょう。