第二章
新左衛門の遺訓に関する考察

遺訓概要

 新左衛門生前の文書はほとんど残っていない。唯一残る【遺訓】(実際には表題はない)は神奈川県立公文書館に所蔵されている。この【遺訓】は江戸時代後期まで半ば埋もれていたのだが、そのとき以降どの家にも共通する家訓として写しが多く作られ、多くの人に大切にされてきた。しかし、その【遺訓】の全文が刊行物に掲載されたことはない。夫婦橋の石碑に示された短文以外に、新左衛門が書き手となっている文章はこれだけであるので、この機会に全文(翻刻)を紹介し、これが書かれたときから今までの顛末を推理してみる。以下では神奈川県立公文書館に所蔵される(以前は内川新田宮井与兵衛家にあった)【遺訓】が原典であるとの前提に立ち、これについて記述する。

 【遺訓】は寛文五年(一六六五年)と六年(一六六六年)の二度にわたって書かれており、本文の中でも三十三ヶ条から成るとされているが、実は「一」で始まる条文が三十二しか見当たらない。前半の二十一ヶ条はその通りだが、後半には十一ヶ条しかない。後に削除されたのか、単なる間違いか、それとも末尾にある「覚」も数えるのであろうか。

 【遺訓】はほぼB6サイズの九十九(つづら)折りの集印帳のような形式になっており、中味は厚めの和紙で作られていて、表表紙と裏表紙は布張りの厚紙で作られている。そして、表面に「大切内川新田古記」と書かれた和紙で包まれている。そこには「但シ 本冊之通写 新田別家内仏之中ニ位牌 其内ニ納ム」とも朱書されている。この和紙は中味よりかなり新しく見え、古いものの上に和紙を重ねて貼って補強修理し、表書きを書き直したように見える。中味もあちこち虫食いが見られるものの保存状態はよい。

 【遺訓】の流麗な書体を見るに付け、床に就いていた新左衛門が書いたというより、雇われた専門家または枕元にいた誰かの代筆によるものと思われる。代筆ということもあってか、末尾に霊巌寺の大誉上人の祓書きをいただいて、「内容証明」をしている。なお、大誉上人は、霊巌寺を江戸の菩提寺とした丹後峰山藩初代藩主京極高通の肖像画(常立寺所蔵、京丹後市指定文化財)に以下のような賛を贈っている。

 「寛文五乙巳十二月十四日 安泰院雪峯道山大居士 霊巌寺第三世 大誉珂山 七十九」この日付は高通の命日であり、それは新左衛門の亡くなったちょうど二年前、内川新田の碑に南無阿弥陀仏という書を寄せた一年四ヶ月前、新左衛門が最後の遺訓を書いた四ヶ月前のことである。この書がいつ書かれたものかは不明であるが、その筆跡や花押は素人目にも【遺訓】の筆跡と花押によく似ている。

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目次 
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第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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