第五章
新田開拓の背景

 海退が進むと単純に陸地が多くなるのではなく、川の流域は堆積物が溜まっていったのである。主な堆積物は砂であった。すなわち砂地であるために耕作や居住には適さず、なかなか開発されることがなかったのである。なぜそれが干拓ないしは開拓されるようになったかというと、「人口増」が最大の理由である。人口が増えると食料の需要が大きくなり、それまでの耕作地では不足になるから新しい土地が必要になるのである。江戸時代の前までは平和と戦乱の時代が繰り返されたので、人口が増え続けることはなかった。しかし江戸幕府ができて安定すると江戸や大坂などの都市部を中心に人口が爆発的に増え、干拓需要も大きくなっていったのである。そしてさらにこれに輪をかけたのが「幕藩体制の維持の必要性」、平たく言えば「年貢を増やしたいというニーズ」が、積極的な干拓推進・奨励の原動力になっていったのである。

 なぜ江戸時代初期に新田開拓(主に干拓)が盛んに行われたのか、そして新左衛門が開拓を行った地はどのような場所だったのかについて考察してみる。

 そのような時代背景から生まれたのが砂村新左衛門であり砂村一族であった。今風の言葉に言い換えれば新左衛門は当時の「ベンチャーの雄」であったのだ。ベンチャーは時に摩擦を起し、時に嫌われながら、時代の変化を演出しながら発展を続けるというのがいつの時代にも共通することだが、なぜか私には新左衛門という人物像からは誠実とか柔和という言葉しか思いつかない。

 もちろん新地開拓は江戸時代に始まったわけではない。太古の昔から続いていたわけだが、室町時代には比較的盛んになり、江戸時代になって全国各地で非常に盛んになった。その後、江戸時代の後期や近代になっても干拓事業は各地で続いた。近代における八郎潟(秋田県)や児島湾(岡山県)の干拓は期待されて始まったが後期には環境破壊の非難を浴びるようになり、諫早湾(長崎県)の干拓はほとんど悪者扱いされるようになった。しかし、過去の干拓がすべて悪であるということはできない。自然の保護と文明の発展の間には、その時代の価値観に基づく「適切な境界」があったし、これからもあるのだから・・。

 今から六千年前の縄文時代をピークとして、地球は人類史上最高の温暖化を迎えた。そして海面は数メートル上昇(縄文海進)したとされる。そして徐々に温度が下がり弥生時代の頃には今の海面と同じになった(海退)ということである。日本各地に残っている貝塚は縄文海進を証明するものである。ちょうどその頃、日本人は海岸で貝を食べて貝殻を捨てる習慣を持っていたからである。つまり貝塚のあるところは当時の海岸線なのである。ただしその後も地盤の沈下、隆起がたびたび起きているので、完全に当時の海岸線に一致するわけではない。

 実は私は、太古の時代には海岸であったところ(旧児島湾、さらに昔は児島の入海の北岸)に生まれ育った。母はその南方の干拓地農家から嫁いできたのだ。つまり、干拓を否定すると私自身の存在を否定してしまうことになるから、やはり昔の干拓は擁護したい。

 縄文海進のピーク時は、関東平野では川越のあたりに海岸があったらしい。もちろん大阪平野はほとんど海面下にあった。平野の少ない三浦半島でも例えば数少ない平地である衣笠から久里浜に至る現在の平作川流域は内海になっていた。新左衛門の出身地である鯖江はかなり内陸のように見えるが実は地図の上では緑っぽく塗られている。すなわち九頭竜川の流域は縄文海進のときかなり南まで海であったと推定されるのである。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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