第一章
砂村新左衛門の生涯

三国から諸国へ

 

 また、忠昌が参勤交代で江戸にいるときには自分も関東に出向きました。そこで目をつけたのが相模国三浦郡(現在の横須賀市)の内川の入海でした。既に江戸周辺の海岸の多くは開拓が終わっていて、新参者である新左衛門が大きな利権を獲得することは困難だったからです。その中で、温暖の地三浦で湾口が狭く、その上流に砂地の洲が広がる内川は大変魅力的であったわけです。そこで早い時期から内川の入海の開拓を始めましたが、まず着手したのは内川の入海の最も外海(江戸湾、現在の東京湾)に近いほうでした。そこは地形の関係から潮水が入りにくい場所で海というよりは砂原であり、少し小高い場所(丸畑と呼ばれ新田開拓前も後も久里浜八幡村の飛び地)では既に耕作が行われていました。この八幡原と呼ばれていた砂原を開拓して、そこを拠点として内川の入海全体を干拓しようと考えたのです。この丸畑周辺の開拓地は後に内川入海が開拓された後しばらくは栗浜八幡原新畑ないしは新田と呼ばれ、樋門の上流の内川新田とは区別されていました。

 越前福井藩の立て直しが一段落すると、新左衛門は各地に出かけるようになります。彼が赴いたのは、西は西国(中国地方)や四国、東は関八州(関東地方)まで、そして北国(北陸地方)、京都・大坂・堺(近畿地方)でした。彼がやりたかったのは干拓工事による新田新地の開拓でしたが、北陸には干拓に適した場所はあまりありませんでした。新左衛門に恩義を感じていた忠昌は、そのような新左衛門の活動を後援します。技術者であって商人ではない新左衛門には、一族を養う程度の財力はあっても、新田開拓を自ら行うほどの資力がなかったので、それは大変ありがたい援助でした。

 新左衛門は寛永年間(〜一六四二年)後期に廃寺同然であった正業寺を復興することにします。新田には「村の寺」が必要だったからです。当時一定規模以上の新田を作った者にしか寺を建てることは許されませんでしたから、再興であってもそれは非常に名誉なことでもありました。自らは真宗(一向宗あるいは浄土真宗)の檀徒であり正業寺は浄土宗でしたが、いずれにしても法然上人の教え南無阿弥陀仏を唱えるという共通点があったので、特に抵抗は感じなかったのでしょう。新左衛門は忠昌に頼み込んで芝増上寺の上人と会います。そして第二十一世業誉還無上人に正業寺の中興開山としての名前を借りることに成功するのでした。そのことも忠昌の新左衛門に対する信頼の大きさを示しています。そして正業寺は新左衛門が中興開基となって再興されましたが、まだその時点では入海の開拓は進んでおらず寺が建てられた場所は八幡村で、入海の際でした。村民もおらず本堂もなく、名ばかりの中興でありましたが、新左衛門はこのときから新田開拓完成の暁には正業寺を村人の結束の象徴にしようと思っていました。業誉還無上人は直前の寛永十七年(一六四〇年)までは鎌倉光明寺の上人でしたので、正業寺は光明寺の末寺となりました。

 ちょうどその頃、寛永十九年(一六四二年)に家康の愛妾で忠昌の養母お勝の方が亡くなりました。お勝の方は家康の死後、英勝院と称して鎌倉の英勝寺を住持していたので、そこに葬られます。そこで新左衛門は英勝寺近くに墓参用の家屋敷を調達して、忠昌に献上しました。これは忠昌からの資金援助に対するお礼でしたが、後世には借金の返済であったかのようにも言われました。

 また三国は、川岸の非常に狭いところで発展を続けているにも関わらず慢性的に土地不足でした。特にすぐ下流に隣の丸岡藩との境界があったので番所を設ける必要がありましたが、番所や役人住居を作る場所も不足していました。そこで新左衛門は築地(工事)を献上することにし、忠昌の許可を得ます。そこはちょうど材木置き場となっていたところで木場と呼ばれていました。ところがまだその工事に着工していない正保元年(一六四四年)忠昌は江戸において病で急逝します。新左衛門は最大の理解者、後援者を突然失って大変落胆しました。それでも忠昌の喪が明けてから木場の開拓に着手し、慶安元年(一六四八年)には竣工します。川岸にせり出すように迫っていた日和山を削って平地とし河岸を埋め立てる工事でした。藩有地となったその場所には、その後番所やそこに働く役人用の家が建てられました。このあたりはその後木場町と呼ばれ、番所裏の官舎は後世まで人々から新左衛門の業績を偲ばれて砂村屋鋪と呼ばれました。

 既に三国では大きな仕事はなくなっており、その上後援者を失ってしまったので、新左衛門にとって三国は居心地のよい場所ではなくなっていました。忠昌に代わる藩主越前守光通はまだ幼少でしたし、忠昌と直結していた新左衛門は以前から、家臣たちから煙たがられたり嫉妬されたりしていました。ここを出て三浦に本拠地を置こうとも考えますが、本格的に開拓を推進するにはまだ資金不足が否めませんでした。

 そこで、今までの人脈を頼ってひとまず大坂に進出する決意を固めました。そのとき妻や二人の弟たちを連れて行くことにします。弟たちは新左衛門を信頼していましたし、新村では発展のないことをよく理解していました。兄弟たちは砂村一族として新地開拓のプロ集団となるべく一致団結したのです。三国のわずかな土木工事の利権は妾の倅に譲って、一族は大坂に向います。

bs2a01_003b.jpg bs2a01_003b.jpg bs2a01_003b.jpg bs2a01_003b.jpg bs2a01_003b.jpg bs2a01_003b.jpg
目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
bs2a01_003b.jpg
あとがき 
bs2a01_002.jpg
前ページ
 
 
bs2a01_002on.jpg
次ページ