第一章
砂村新左衛門の生涯

与兵衛組と善六組 

 安永年間(一七六九年〜)の頃になると、両家の経営状態は一層悪化します。借金を重ねた結果、天明年間(一七八一〜八八年)までに内川新田のすべての所有地を手放すことになります。砂村家の窮状を救うべく田畑屋敷を買い取ったのは、浦賀の干鰯商人の宮原屋与右衛門(二代目)でした。そして与右衛門は本業(本家)を隠居して宮井与兵衛と名乗り、内川新田に屋敷を持ちました。屋敷は新四郎家が使用していたものをそっくり譲り受けました。位牌も墓もすべて引き継ぐという形で、与兵衛は半ば新四郎家を継いだようなものでした。新三郎家の財産も与兵衛が一旦預かっていましたが、元は熊谷から出てきていた善六という者が砂村家の縁戚の女性を嫁に迎える形で砂村家を継いだため、新三郎家の田畑や屋敷は善六に譲渡されました。砂村善六は野比最光寺と内川新田正業寺の檀家となったので、新三郎家を継いだ形となりました。その後、内川新田は与兵衛組(鰯屋組)、善六組(砂村組)という二組体制になって続きました。江戸でも大坂でも砂村家は続いていて、お互いにずっと親戚付き合いを続けていたものの、いずれの地でも特に繁栄するということはありませんでした。

 与兵衛家はその後、「浦賀の本家与右衛門が隠居したら内川新田の名主になる」ということで続きました。与兵衛は浦賀の真宗乗誓寺の檀家であるとともに内川新田正業寺の檀家にもなりました。与兵衛は埋もれていた新左衛門の業績を掘り起こします。特に新左衛門の遺訓にはいたく感激しました。そこで与兵衛は遺訓がちょうど納まる特殊な形の位牌を作りました。善六家にも同様の位牌を置き、遺訓の写しを納めさせました。宮井家の位牌中央には新左衛門、右に初代名主の二代目新四郎、左に与兵衛の三人の名前(表に法名、裏に俗名)が記されました。与兵衛の亡くなる寛政三年(一七九一年)の少し前のことでした。またその頃、二人の初代名主のお揃いの位牌も新調されました。

 与兵衛はまた新左衛門の墓と初代新三郎の墓も作らせました。新左衛門の墓は遠く浅草の善照寺にありましたので、内川新田でも皆が容易にお参りできるよう計らったのです。善照寺の遺骨を、新四郎家に伝わっていた将軍家から拝領の壷に分骨して、それを屋敷から海側に少し離れた細川というところの砂村家の墓に納めました。新左衛門の墓には弟の新右衛門、三郎兵衛の法名も刻まれました。与兵衛が初代新三郎の墓も作ったのは、内川新田の開拓者に敬意を表したかったからです。初代新三郎は大坂に帰って三郎兵衛を継いで大坂の地で亡くなりそこに葬られていたので、正式な墓は大坂にありました。そのため子孫がお参りしやすいように計らったものでした。

 砂村善六家は最近まで続いていましたが途絶えてしまい、大阪でも東京でも明治時代以降その地を離れたため、各新田付近に傍系の砂村家は散在するものの正統な砂村家を継ぐ家はどこにも見当たりません。宮井家も戦前から戦後にかけて東浦賀に引き揚げ、新左衛門の善照寺の墓も戦災によって消失しましたが、内川新田の砂村家・宮井家墓地にあった墓碑や位牌などは今、正業寺に安置されています。遺訓は各地を転々としたあと、今は神奈川県立公文書館に保存されています。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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