第一章
砂村新左衛門の生涯

その後の砂村一族 

 新左衛門と同じく病の床に臥していた次弟新右衛門は新左衛門の死の翌年寛文八年(一六六八年)に亡くなり、やはり善照寺に葬られました。末弟三郎兵衛は大坂で初代新三郎に三郎兵衛を継がせて二代目とし、自らは隠居していましたが、延宝二年(一六七四年)に亡くなりました。

二代目三郎兵衛は新左衛門から新三郎家、新四郎家の後見を託されていたので、問題があるたびに関東に来ていました。三郎兵衛が相続していた野毛新田(吉田新田)の所有地は寛文十一年(一六七一年)に百五十両で一括して売却しました。この頃から勘兵衛は出資者達から土地を買い上げ、新田全体を所有することになります。三郎兵衛はこの百五十両を元手に砂村新田近くの八右衛門新田に屋敷地を取得しました。

 二代目新四郎は当初砂村新田の名主を務めていましたが、しばらくして内川新田に移りました。二代目新三郎は元々天神社近く(現在の久里浜中央自動車学校・イオン横須賀久里浜ショッピングセンターあたり)に屋敷を構えていましたが、二代目新四郎はその北隣(堤防側)の水神社がある場所(今の久里浜郵便局・日本郵政久里浜支店あたり)に新たに屋敷を構えました。砂村新田の土地は開発直後にその半分近くを資金提供者に譲渡していましたが、その後も次々に売却していましたので、すべてが砂村家の土地である内川新田に移ることにしたのです。内川新田の半分は新四郎家のものでしたから当然の結論だったかもしれません。わずかに残った砂村家名義の砂村新田の土地と大名旗本に譲渡した土地を代行管理する名主の役目は新四郎家の傍系(金三郎家)に譲りました。

 最初は内川新田を共有する形で両立していた両家でありましたが、徐々に問題が大きくなっていきます。農地の譲渡は奉行所または代官所の許可が必要でした。分割しての相続も同様に許可が必要でした。しかし、どの部分をどちらの家が取るのか、二代目三郎兵衛も間に入って調整が行われたのですが、なかなか話はまとまりませんでした。そこで両新田でお上の裁定を仰ぐことになりました。延宝五年(一六七七年)には関東郡代伊奈半十郎によって砂村新田の内割について、延宝七年(一六七九年)には走水奉行大岡次郎兵衛によって内川新田の内割についての裁定が下されました。それは両新田をまったく同じ面積に分割するもので、砂村新田の大名や旗本の所有地の管理区分も同様に平等に分けられました。

 二代目三郎兵衛を継いでいた初代新三郎は元禄四年(一六九一年)大坂で、初代新四郎は元禄五年(一六九二年)江戸で相次いで亡くなりました。しばらく経った元禄十一年(一六九八年)、内川新田の新三郎家、新四郎家は共同で正業寺の本堂を建立しました。このとき鴻巣勝願寺の廓誉上人を住職に迎えて再中興したので、名実ともに立派なお寺になりました。新四郎家は砂村新田にいるときから浄土宗の信者になっていたので内川新田でも浄土宗の正業寺の檀家となりましたが、新三郎家は開拓の初期の頃から野比村にある真宗の最光寺の檀家になっていました。「求心力を働かせるため内川新田の村人はすべて正業寺の檀家となる」と新左衛門から言われていたので、新三郎家は両方のお寺の檀家になりました。

 その後、二代目新三郎も、二代目新四郎も享保二年(一七一七年)に相次いで亡くなります。この頃を境に両砂村家は衰退していきます。両家が衰退していった理由はいくつかありました。その後、両家とも嫡子に恵まれないことが多く、相互にあるいは別家から養子を迎えるなどして継がざるを得なかったことも一因でしょう。継いだ者が、文人的な生活に溺れて新田経営に注力しなかったこともあるでしょう。しかし、最大の要因は度重なる大川(今の平作川)の氾濫でした。大川は内川の入海に流れ込んでいたいくつかの(吉井川、佐原川などの)川を合流して内川新田を抜けて樋門から入り江側に流れ出る川でした。夏季の川の氾濫は、米の大不作につながるもので、そうすると年貢は納められなくなり、新田開拓前に蓄えた金を消費していくしかありませんでした。しかし、これも尽きてしまうと借金が嵩むようになります。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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