第二章
新左衛門の遺訓に関する考察

遺訓の変遷

 【遺訓】は新左衛門の死後しばらく砂村新田の新四郎家にあったものと思われるが証拠はない。このとき既に、内川新田の新三郎家に写しがあったかもしれないがこれも確かではない。新四郎家が内川新田に移るときには、持参されたものと思われる。内川新田でも、どのように保存されたのかも、新三郎家に写しがあったかどうかもわからない。分かっているのは宮井与兵衛家の位牌に【遺訓】が入っていたということだけである。

 その後、先の大戦の前には、内川新田の多くの土地は海軍に接収され、砂村家の墓地にあった墓碑は正業寺に移され、与兵衛家は内川新田を引き払って東浦賀に帰った。そのとき【遺訓】の入った位牌も、そこに与兵衛の名前があったことから、東浦賀の宮井家の仏壇に置かれることになった。この位牌と【遺訓】は宮井本家が戦後東京に移ったとき、一旦東京の宮井家で保管されたようである。このことは「東京市史稿・産業編第五」に記述されている。しかし、【遺訓】はいつの間にか市場に流通し、神奈川県立公文書館が業者から買い取って所蔵するに至る。また私が位牌を発見したのは東浦賀の宮政商店(本家から墓を維持するよう頼まれた宮井別家で本家屋敷に在住)であった。恐らく位牌だけは宮井家の外に出ることはなく、東浦賀の宮井家の仏壇に納まったのであろう。そして位牌は宮井家の意向もあって今は正業寺本堂に安置されている。

 宮与が新四郎家の田畑、屋敷をすべて引き継いだとき、この【遺訓】が新四郎家にあり与兵衛がこれを引き継いだことは、ほぼ確かであろう。このとき新四郎家も新三郎家もかなり落ちぶれていたので、新左衛門の位牌がしっかりした状態ではなかった可能性がある。そこで資産家である与兵衛が墓碑と位牌を新調したということは想像に難くない。これらはいずれもさほど古くないものなので、この頃の新調を物語っている。墓碑も位牌もその状態(墓碑の表面状態や位牌の内部の木の切り口など)から判断するに三百年以上を経ているものでなくせいぜい百数十年しか経っていないように見えるからである。位牌の中央には新左衛門の法名(裏面では俗名、以下同じ)が書かれており、右に二代目(つまり内川新田初代の)新四郎、左に宮井与兵衛の法名が記されている。このときが初めてなのか、前からそうだったのかは分からないが、「遺訓」がすっぽり納められる特殊な形の位牌を作り、その中に和紙で「遺訓」を包んで納めたのは恐らく与兵衛であろう。また新三郎家を引き継いだ善六家にも同様な位牌を作り、「遺訓」の写しを納めたものと思われる。また与兵衛は新左衛門の墓と内川新田開拓の功労者初代新三郎の墓碑を当時の形式で作った。墓碑は新左衛門が内川新田に来たとき、あるいは与兵衛が継いだときに浅草の善照寺から移したという説もあるが疑わしい。むしろ遠くに正式の墓のある二人を内川新田でもお参りしやすいように別の墓を作ったというほうが妥当である。大正時代に書かれた「久里浜志録」には、当時善照寺に新左衛門の立派な墓があることを記している(現時東京市浅草区新堀端善照寺ニ法名ヲ永照院釈真悦信士ト刻セル墓碑ハ此偉人の功績ヲ永世ニ照ス)ので、戦前までは両方に墓があったものと思われる。

 文化十三年(一八一六年)の命日(十二月十五日)に、善六家と与兵衛家は共同で新左衛門百五十回遠忌の法要を執り行っている。恐らく善照寺にて行われたものと思われるが記録はない。【野比最光寺の過去帳】には、そのとき新左衛門に「永照院」という院号が改めて授与されたことなど遠忌の様子が記されているが、最光寺で法要があったようには窺えない。

 百五十回遠忌の法要があった翌年、亀次郎という人が遺訓を借りて、一晩のうちに書き写したとされる文書【相模国三浦郡内川新田根元記】が横須賀市佐原の五本木家に所蔵されている。どこから借りたのかは不明である。神奈川県立公文書館の【遺訓】とは異なる表記の部分が多数あるが、趣旨が変わっていることはない。おそらく写し間違えたか、あえて表現や字を変えたかなのであろう。しかし霊巌寺大誉の祓書き部分はない。写しの写しなのかもしれない。また亀次郎が五本木家の先祖かどうかも定かではない。五本木家は当時佐原村の輪番名主を務める旧家であるが、当時の名主の名前とは異なる。名主の親、すなわち隠居であったかもしれない。当時、百五十回遠忌の法要が賑々しく行われたので、近隣のうわさになり、新左衛門の功績が思い出されたのかもしれない。

 今ある位牌の表面はかなり新しい。東浦賀宮井家(宮政商店)の先代未亡人の話では戦後のある時期に塗り替えられたと聞く。

 なお、最近、久里浜天神社に所蔵されている【遺訓】の写しを拝見した。二通あってその内一通は四代前の宮司早川祐智氏が明治二十一年(一八八八年)に内川新田宮井家の支配人から【遺訓】を借りて書き写したもの(表紙に、「内川新田開発者砂村新左エ門譬書」)で、当然前述の遺訓(神奈川県立公文書館所蔵)と同じ内容になっている。また装丁にも言及しており、今神奈川県立公文書館にある【遺訓】が文化年間に内川新田宮井家にあったことを証明している。もう一通は文化十一年(一八一四年)六月の写しで、表紙に【砂村先祖傳書写】とある。他の写しと同様にいくつか仮名遣いなどの異なる部分はあるが、大誉の祓書きもある。しかし何と言っても大きく異なる特徴は、「覚」の後の署名の前に、以下の文章が記述されていることである。

 「私年六十六歳 一年に松千本宛ノ積りヲ以六万六千本 天地江ほとこしのため植置也 子孫之者一歳に千本宛植置可申」(若干の翻刻ミスの可能性あり)

 仮に「意図的に【遺訓】の趣旨を変えた者はいない」とするならば、「新左衛門は若干異なる二つの【遺訓】を残した」ということになる。最も素直な推理としては、「新三郎家と新四郎家にそれぞれ一通ずつの【遺訓】を残した」、「後に大誉が両方の【遺訓】に祓書きしたが、趣旨は同じでも若干文言を変えて書いた」、「気懸かりな内川新田の新三郎家だけには毎年松を千本植えるよう言い残した」ということになる。文化年間の頃には両家(当時は宮井与兵衛家と砂村善六家)に【遺訓】が存在したのであろう。宮井家に残っていた【遺訓】の包み紙に「内川新田古記 本冊之通写し 新田別家内仏之位牌其内に納む」と書いてあることも、このことを言っているのではないだろうか。当時善六家と天神社は道を挟んだ隣にあり、善六家が新三郎家を継いで間もなくのことであった。そこで【遺訓】が「新鮮な話題」として取り上げられたであろうことは容易に想像できる。しかし完全な出所の究明は困難であるし、本書は真贋判定が目的でもないし、私も専門家ではないので、いずれが「本物」なのかということは、専門家の判断に委ねることにしたい。

 また、大誉の祓書きも趣旨が変わるほどではないが表現が異なっていて、とても書き写し間違いとは思えないのである。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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