新田所有者
絵図は当時の砂村新田の区画ごとの所有者、土地の種別、面積、境界等の長さなどを示している。堀(川)や土手、道なども示している。また新三郎、新四郎の権利関係については色で塗り分けられている。青(実際には薄い緑色)が新三郎、黄(実際には薄い茶色)が新四郎となっており、既に他者の権利となっている土地の一部には、青または黄の丸印がつけられている。塗りつぶした丸は畠または屋敷であり、中空の丸は干洲すなわち未開地である。これらは新三郎、新四郎が名主として年貢渡しを担当していた土地である。武家の所有地の小作人管理も請け負っていたのかもしれない。この時点で、砂村新田は完全に完成しているとは言えない。なぜなら絵図の中央を東西に横切る形で長い土手が示されており、これが最南端の土手すなわち潮除け土手なのであり、その南側は海同然の干洲だったようなのである。新田の南端のほうに潮除けの土手が完成するのは元禄年間(一六八八〜一七〇三年)に入ってからのことである。このような海同然の土地に単に杭を打つだけで、その所有権をなぜ主張できたのかは不思議ではある。このような干洲の多くは茅野であって、茅葺屋根の材料を収穫する場所でもあったようだ。したがって、屋敷、(中ないしは下)畠、干洲に分類して年貢(税率)が定められていたのかもしれない。
砂村新田が内川新田と大きく様相を異にするのは、土地所有の複雑な権利関係である。内川新田では開発後しばらくの間、一部の寺に寄進した土地を除いて他の地権者の名前は見られず、きれいに新四郎と新三郎で二等分している。一方、砂村新田では多くの土地特に主な畠や屋敷は他者の名義になっていて、新三郎、新四郎名義の土地の多くは干洲なのである。
これを集計すると、新三郎名義・新四郎名義はいずれも三十万坪前後で、多くは干洲である。この外に二人の共同名義と思われるものが四万坪弱ある。他者名義で新三郎管理分は二十二万六千坪余、新四郎管理分は二十四万五千坪余である。このほかに管理対象でもない土地があり、これらの合計は百十三万七千坪余となる。またその内訳として、屋敷は十五万六千坪余、畠は六万八千坪余となっている。横浜の吉田新田が約三十四万九千坪、内川新田が約三十二万三千坪であるのに対して、かなり大規模である。しかしながら、当時の未開地を除くと、三新田の中で最も小規模であったとも言える。なお、平等に分けたとしながらも持分が微妙に異なるのは、記載ミスや読解ミスの可能性もあるが、これ以上ははっきりしない。
絵図に示される所有者を分類したものを表に示す。大名(藩主)が十名前後、旗本(大目付、奉行経験者等)が十五名前後、下級武士かもしれない者が数名、ほかに町人らしき者や寺の名が示されている。絵図を復元してこれを北から南へ四分割(1〜4)、東から西へ四分割(A〜D)合計十六分割した図を資料編に掲げており、表の区画番号はこれに同じである。表では区画番号の次に管理者を示しているが、これは前出の青丸、黄丸の付された土地である。その次に絵図表記の所有者を示している。さらにその次には面積を記載している。絵図では屋敷、畠は町反畝歩で記載されており、干洲は坪で記載されているが、表では集計の都合から坪に換算して統一した。次の注釈に「推」とあるのは、面積が明示されていない土地であり、絵図上の形状から筆者が概算したものである。写しであるために記載漏れ等があるかもしれず、これらの数値は完全なものとして期待することはできない。
この絵図の主目的は財産分けであるが、別の見方をすれば新左衛門の資金源や交友関係を示すものとも言える。そこで次に、絵図に登場する人物の特定を試みたので、主な者について以下にこれを記述する。絵図における表記は武家の場合は家名と官位名称になっていて、人物が特定されていない。そこで各種資料からちょうどその当時、その官位を名乗っていたのは誰であったのかを調べてみた。
松平越前守は四代福井藩主綱昌が該当する。初代藩主伊予守忠昌は家康の子結城秀康の子である。忠昌は新左衛門が三国にいたころに着任しており、土木工事に長けていた新左衛門を災害復興工事に重用したものと思われる。この頃から新左衛門は新田開発を望んでいたが、忠昌はそのことについても後援したようである。福井藩の【片聾記】には忠昌(法名隆芳院)が新左衛門に資金を貸したようなことが書いてある。忠昌は新左衛門とほぼ同年代だが、まだ新左衛門が三国にいる時代に江戸で病死した。このことが、すなわち後援者を失ったことが、新左衛門が越前を去る大きな動機にもなったと思われる。したがって、この砂村新田の土地は、越前松平家へのお礼(寄付)だったと思われる。恐らく大金を借りたわけでもなく、二代目以降はさほど世話にもなっていなかったので、このような未開の干洲の寄付で取り繕ったのではないかと思われる。【片聾記】においても、「この辺りは大名方へ差し上げたもので当家にも差し上げられた」と言いつつも「何も生えない役に立たない土地だ」と酷評しており、一方で「忠昌が新左衛門に金を貸していた」というようなことも書いており、献上なのか返済なのかあいまいである。【新編武蔵風土記稿】等によると、福井藩は後に別の砂村新田の土地を保有することになるが、その経緯は定かではない。
松平備前守は松平大河内備前家の正信と思われる。正信は知恵伊豆と言われた老中松平伊豆守信綱とは従兄弟関係にある。明暦の大火からの江戸の復興を指揮したのが当時の老中伊豆守信綱であったのだ。そこで信綱は自らが表に出ることはなく、従兄弟である正信に開発前投資を促したのではなかろうか。
松平下野守は松平津山家の綱賢、松平出羽守は松平越前松江家の綱近と思われる。いずれも越前松平家の遠戚にあたるが、その動機はよくわからない。松江藩は江戸時代後期になっても広大な土地を所有しており、単なる投機ではなかったと思われる。
そのほかの大名クラスとしては以下の名前が見られる。井伊伯耆守は掛川城主井伊与板家の直武、本多出雲守は郡山藩主の政利、金森飛騨守は飛騨高山藩主の頼業、細川若狭守は肥後熊本新田藩初代藩主の利重、土屋民部少輔は上総久留里藩主の利直と思われる。この内の熊本新田藩は当時領地を持たない名目的な藩で、利重は江戸鉄砲洲に住み、参勤交代をしない定府大名であった。後にこのあたりの広大な土地を熊本藩が所有したことを考えると、新田藩は熊本藩が新田を獲得していくための出先機関であったのかもしれない。また佐竹右京は既に転売していたようだが、出羽久保田藩主の右京大夫義処と思われる。
また興味を引く旗本として朽木伊予守の名がある。これは太閤検地のころに検地奉行を務めた朽木河内守元綱の孫に当たる稙昌である。元綱は新左衛門の出身地である越前砂畑村改め新村を検地した記録が残っており、やはりお礼の意味の献上であったのかもしれない。因みに元綱は関が原の戦いで寝返って徳川家康についたが、その子すなわち稙昌の父は家光の小姓から大名(鹿沼藩後に土浦藩主)にまで成り上がった民部少輔稙綱である。
旗本クラスには奉行経験者の名前が多く見られる。当時、旗本の禄は低く役職に就かねば貧乏そのものだった。そこで奉行職は財産形成のためには大変有効だったと言われている。特に長崎奉行の場合は献金品だけで数千両も稼いだと言われる。そういう背景下で、幕府は暗に大名や旗本に新田開発への投資を薦めたのではないかと推定されるのである。
神尾若狭守とは作事奉行であった元珍であり、その父備前守元勝は長崎奉行、南町奉行を歴任している。その敷地に名前を連ねる大岡弥右衛門は大岡美濃守忠高のことであり、かの有名な江戸町奉行大岡越前守忠相の父である。岡田豊前守は勘定奉行であった善政またはその子の善次と思われる。石丸石見守は大坂東町奉行であった定次、加々瓜甲斐守は寺社奉行であった直澄、松浦猪右衛門は勘定奉行であった信定と思われる。彼らは新田開発に関わる情報を得やすかったと思われ、新左衛門の開発に対して事前投資をした結果の所有ではなかろうかと思われる。
しかし、もっと新田に関する権限を持っていた旗本も名を連ねている。徳山五兵衛は初代本所築地奉行の重政(後に勘定奉行)であり、幕府のこのあたりにおける新田事業を統括していたと思われる。また坂井八郎兵衛は走水奉行であった政令(または成之とも呼ばれる)であり、大岡次郎兵衛も走水奉行であった直政である。走水奉行は当時三浦の内川新田を含めこの辺りを支配していた。坂井八郎兵衛の奉行時代はまだ着工間もない時期だったが、その後を受けた大岡次郎兵衛は新左衛門死後もしばらく奉行職を続け、延宝七年(一六七九年)の内川新田の出入に際しては、その裁定者として署名しているのである。
そのほか高木伊勢守は大目付経験者の守久と思われ、既に転売していた渡辺大隈守も大目付であった綱貞である。そのほかにも多数の武家らしき人名が見られるが、下級武士であったのか、加藤内蔵助(加藤水口家の明友)のほかは該当人物を特定できなかった。多くの部分(畑や屋敷)はこれら大名旗本ら事前の投資者が分け前として得た土地であり、ある程度の部分が開発後に新左衛門(あるいはその一族)が売却したものと思われる。多くは長く所有していた形跡はなく別荘(抱屋敷)として入手したというより転売益目的のほうが強かったと思われる。また町人と思われる名前も見られるが、これらも開発後に譲渡(売却)したものであろう。また未開地(洲)の比率が高いものの、これらも順次処分されていったものと考えられる。未開地は特に新三郎、新四郎の名義になっているものが多く含まれる。
武家、町人以外で注目されるのは、寺社関係である。これは信心深かった新左衛門が開発後初期の段階で寄進したものと思われるが、どうもその後の管理状態がはっきりしない。八幡と記された土地は、その昔八幡社があった土地と思われる。【新編武蔵国風土記稿】には当初富岡八幡宮を当地に勧請していたが、寛永年間に深川に移されたとされている。寛永年間のこの地は海中であり、正確に同じ場所だったというわけでもなかろう。同稿にはさらに「寛文五年に八幡を勧請(富賀岡八幡宮)して深川八幡の旧地という意味で元八幡と呼んだ」とされている。寛文五年(一六六五年)は砂村新田完成後間もない頃で、新左衛門の死の二年前である。
東門跡と記された土地が南端の土手を挟む形(干洲と屋敷)で示されている。東門跡とは当時の浅草本願寺(京都の東本願寺別院)で今の東本願寺である。新左衛門が当初葬られた浅草新堀端の善照寺は浄土真宗(当時は一向宗と呼ばれた)の東本願寺の末寺であったので、これに敬意を表して寄付したと思われる。しかし、この寄付は口約束のようなものだったのか、権利関係があいまいになったらしく、享保年間(一七一六〜一七三五年)にはここが浅草本願寺の所有であることを確認するような絵図【砂村新田囲家作図】が作られている。そこには「詳細は不明だが砂村新左衛門が灯明として寄付した」というようなことが書かれているのである。
この絵図では土手の外は海となっているが、示された屋敷の坪数は延宝五年(一六七七年)の絵図の屋敷と干洲の合計に等しく、しっかりと測量されたわけではなさそうだ。なお、江戸時代後期に編纂された【新編武蔵国風土記稿】にも「東本願寺が開発当時から持っている」と書かれている。また最近まで地元の人たちはこのあたりのことを(門跡を訛って)「もんじき」と呼んでいたそうで東本願寺の所有地であったことを示唆している。上記絵図の書き付けには「砂村新田伊奈半左衛門殿御代官所 惣地面壱万坪 本願寺御門跡抱屋鋪 此屋鋪畑は為燈明田砂村新左衛門申者致寄附候 但年代分明難知候」と書かれている。
その近くに伝光明寺とも読める土地がある。この「伝」が意味不明だが、全国にあまたある「光明寺」の中で、まず思い浮かぶのは鎌倉光明寺である。新左衛門が内川新田で中興開基となって再建した正業寺は、この鎌倉光明寺の末寺である。そして正業寺の中興開山は芝増上寺の二十一世業誉空脱還無上人と伝えられるが、増上寺に移る前に鎌倉光明寺の三十四世であったのだ。従って、新左衛門が鎌倉光明寺に土地を寄付したのではないかとも思われるが、鎌倉からは余りに遠く、この推理には少し無理がある。なお、内川新田の土地の一部は正業寺に寄付されたようだが、浅草本願寺や光明寺に寄付されたという記録はほかに残っておらず、口約束ないしは寄付の予定に過ぎなかったかもしれない。
この絵図の砂村新田には含まれないが、隣接する八右衛門新田の砂村新田側に興味深い記述を発見した。そこには河岸の矩形の屋敷地があって、「此屋敷六反弐畝三歩之処 八右エ門新田之内ヲ三郎兵エ求ムニ付 今度砂村新田割合除之新三郎ニ被仰付」と書いてある。対岸の同様の土地には「同断」と書いてある。この三郎兵衛は初代新三郎(裏書にある新三郎の親)と同一人で大坂に帰って二代目三郎兵衛を継いでいた者である。二代目三郎兵衛は寛文十一年(一六七一年)に吉田新田の土地を売って百五十両を得ているので、この金を元手に延宝五年(一六七七年)までにこの土地を購入したものと思われるが、目的は分からない。二代目三郎兵衛は新左衛門名義だったはずの吉田新田の土地を相続していたが、これは内川新田を開拓したことへの功労金であったかもしれない。そこで投資のためにこの土地を購入した可能性がある。しかし、この裁定では実質的にその子二代目新三郎のものと見なされ、砂村新田の持分が差し引かれたというように理解できる(反対に、三郎兵衛の土地だが新三郎の持分とはみなさないという風にも解釈できる)。