第三章

資金源としての砂村新田開拓

 新左衛門がなぜ宝六島あたり(今の江東区南砂あたり)を開拓することになったのか、またなぜ絵図のような土地所有状態になったのかは、記録になく定かではない。以下に述べることは、新左衛門の経歴や当時の時代背景から筆者が推理したものである。

 おそらく、新左衛門が着工した万治年間(一六五八〜一六六一年)のすぐ前の明暦三年(一六五七年)に起きた振袖火事が大きなきっかけになったものと推理される。霊岸島にあって大火で消失した霊巌寺を深川に移築するに当たって、新左衛門が大いに貢献したことは想像に難くない。なぜなら、霊巌寺の大誉上人は当時から既に高僧として知られているが、その後の新左衛門との親交は当時の貢献なくしては説明できないからである。大誉上人は新左衛門の遺訓および内川新田の樋門成就記念碑に南無阿弥陀仏とその名、花押を記している。霊巌寺は増上寺、光明寺、正業寺とともに浄土宗の寺であり、浄土真宗の東本願寺や善照寺とは宗派を異にするものの、新左衛門の大きな心の拠り所になっていたようである。

 江戸復興(霊巌寺移築等)に貢献したおかげで、付加価値が大きく開発障害の少なそうな場所の開発許可を得ることができたと思われる。幕府にとっても、結果として年貢が増えることであり、また高級官僚(大名旗本)に対して財政負担なしに投資利益を与えられるという一石二鳥の計画でもあった。初期に幕府直轄の開発が多かったのに対し、だんだん「民活」へ方向転換していたことも要因になっているだろう。また筆者は、新左衛門の最終的な目標は内川新田を開拓して村の長になることであり、砂村新田の開拓はそれより前に着手していた内川新田開拓の追加開発資金確保のための手段ではなかったかと推定している。比較的狭い八幡原の開拓は堤防を築く程度で大きな資金を要しなかったが、広大な内川の入海を開拓するには何倍もの資金を要したはずだからである。

 振袖火事(明暦の大火)からの復興の指揮を執っていたのは、「知恵伊豆」と言われた老中松平伊豆守信綱で、復興推進のため多くの専門家の知恵を集めたものと思われるが、新左衛門もその一人であったのだろう。そうでもなければ、地方から出てきた「一技術者」に新田開発を許可するはずがないからである。そしてこの老中のお墨付きが、多くの大名家、旗本家からの出資を得ることに繋がったものと思われる。新左衛門は商人でもなかったので、大きな自己資金を持っていたとは思えない。振袖火事の後の材木価格高騰で大儲けをしたといわれる吉田勘兵衛が吉田新田を開拓する際でも自己資金だけでは不足していたのだから、新左衛門はその資金の大部分を外部から求めざるを得なかったはずである。

 新左衛門が三国や大坂に本拠を置いていたころから、干拓・埋め立て等の新田・新地開発に強い関心を寄せていたことは確かであろう。しかし、なぜ江戸周辺の開拓を許されることになったのであろうか。当時深川周辺は既に新田開発がかなり進んでいて、余り新規開発の余地はなかったはずである。当時、江戸の(幕府御用達の)木材石材商であった勘兵衛(後の吉田勘兵衛)でさえ江戸周辺での開拓を諦めて、横浜の野毛(後の吉田新田)を開拓することになったのも、江戸周辺では開拓に適した大規模な寄洲が少なかったからである。

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目次 
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第四章 
第三章 
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あとがき 
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