兄弟について
新左衛門の家族に関する情報も以下の断片的なものしか残っていない。
@ 砂村を名乗るようになった後の両親に関する情報は全くない
A 三国に妾とその倅がいて、三国を出るとき、そこに残した(その後の記録はない)
B 妻と思われる人物(法名妙忍)が新左衛門の墓碑に並んで刻まれている
C 嫡子がいたという明確な記録はない
D 新右衛門と三郎兵衛という弟がいたこと以外に他の兄弟姉妹については情報がない
E 内川新田、砂村新田の遺産は新三郎、新四郎がほぼ等分して継いだが、新左衛門との関係について確証となる記録はない
F 後に新三郎、新四郎が新左衛門のことを自分たちの父または親と称している
G新四郎家と新三郎家はどちらが本家というわけでもなくほぼ対等であった
これらの情報は発見済みであるにもかかわらず、その一部が無視されたり軽視されたりしているので、再整理しておこう。両親に関する情報(過去帳や墓碑等)は浅草善照寺にあったのかもしれないが、現在はまったく不明である。三国の関係者の情報も発見に至っていない。妻の情報は墓碑の記述のみである。正面左側『釈氏』の下に新左衛門の法名と並んで『法名妙忍 禅定尼』、その横に『萬治三季子七月廿七日』とあり、各新田の開発初期の頃に死んだことになる。江戸ではなく大坂で死んだ可能性もあると見ているが定かではない。二人の間に子がいたという記録は全く見当たらないので、墓碑の情報のみを是認しておくことにする。【正業寺過去帳】に『釈宗悦信士 砂村新右ヱ門事 同新左ヱ門弟 三良兵ヱ之兄』という記述が見られ、新左衛門には弟新右衛門、さらにその弟三郎兵衛がいたことが確認できるが、それ以外の兄弟姉妹に関する記録はない。
これらを情報源としながら、これまでの定説は「新左衛門は次弟新右衛門と末弟新四郎と甥の新三郎(やはり弟の三郎兵衛の子)を連れて関東に来た」というものか、あるいは「新三郎と新四郎は新左衛門の子であった」というものであった。家系に関する分析は赤星直忠氏が書いた「新田開発史」の中の「内川新田」の項が最も古く詳細である。ここには正業寺の墓碑、過去帳等から推定したと思われる詳細な家系図も載せられており、その後の研究の基礎となっている。これによれば「新左衛門(法名真悦)の次弟は新右衛門(法名宗悦)で、その弟が三郎兵衛(法名宗慶)、さらにその弟が新四郎(法名宗徹)」であって「三郎兵衛は大阪に残って、その子新三郎(法名道詠)が新左衛門に従った」となっている。しかし、墓碑や過去帳以外の根拠が明示されておらず、多くの部分は推定によるものと思われる。
兄弟が何人いたかは不明である。しかし水落あるいは新村に新左衛門の弟が残っていれば分家を継いだであろうが、分家は途絶えている。従って、確認されている新右衛門と三郎兵衛の二人の弟がいたということでよかろう。このことはいずれの文献でも異論はないが、「開拓誌」は新四郎も弟(新三郎は三郎兵衛の子)だったとしている。
正業寺の新左衛門の墓碑に関して、「開拓誌」は「左右に宗悦及び宗心の法名とその没年月日を彫している。【正業寺(砂村家)過去帳】により宗悦が新左衛門の弟の新右衛門であり、新三郎の父三郎兵衛の兄であることが知られたが、宗心に関してはまったく不明である。」としている。過去帳に出てくる新四郎こと宗徹については、墓碑がないと疑問をさしはさみながら結局初代新四郎と認定している。
これに対して前出の山内氏は、「新左衛門と新四郎・新三郎は親子関係であって、新四郎・新三郎の何れが兄か不明だが二人は兄弟」という説を展開している。その根拠は正徳四年(一七〇七年)の内川新田と隣接の八幡村の出入に関する文書【取替申証文之事】において『・・・新四郎・新三郎訴上候者砂村新田之儀五十四年以前私共親新左衛門・・・』とする記述があり、新三郎と新四郎が新左衛門を親と呼んでいたというものである。以下において、筆者は上記両説と若干異なる仮説を展開する。
まず赤星氏は新四郎(宗徹)を新左衛門の弟としているが、正業寺墓碑によれば、新左衛門の死後二十五年である元禄五年(一六九二年)の歿となっており、弟としてはいささか長生きしすぎである。【正業寺過去帳】には八日(命日)のところに『元禄五申三月 恵照院光誉宗徹居士 砂村新四良』とある。また弟三郎兵衛の法名を宗慶と推定しているが、(正業寺位牌)によればその没年は元禄四年(一六九一年)であって、やはり当時としては長生きしすぎの感がある。【正業寺過去帳】のやはり八日のところに『元禄四未八月 釈宗慶信士 砂村新三郎父』とある。いずれも二、三歳年下だと仮定すると八十歳を超えている勘定になる。因みに次弟新右衛門の没年は寛文八年(一六六八年)である。また、赤星氏は新左衛門の墓碑の右側面の法名宗悦は新右衛門としながら、左側面の法名宗心を後世の間違いと推定して無視している。墓碑の宗心の没年は延宝二年(一六七四年)であり、むしろこちらのほうが弟として無理がない。一方、山内氏が【取替申証文之事】を引用してそこに出てくる新四郎・新三郎が新左衛門の実子であると主張することも、年代的に無理がある。当文書にも記されている正徳四年(一七〇七年)の五十四年前とは万治三年(一六六〇年)であり、【新編相模国風土記稿】によれば内川新田の最初の検地がなされた年で計算に矛盾はない。しかし正徳四年(一七〇七年)は新左衛門の死後四十七年が経過しており、新四郎・新三郎が新左衛門の三十歳代のときの子であったとして八十歳前後であり、生きていても隠居の年齢である。また当時は先祖のことを親と呼ぶ習慣もあり、養子であった可能性もあり、「私共親」と呼んでいることが「実子である」ことの証拠にはならない。また山内氏は延宝七年(一六七九年)の内川新田出入の際の【御絵図面御裏書之写】において、二人が等分に分割相続したことが記されているのを根拠に、伯父甥の関係よりも兄弟の関係の可能性が大きいと推理しているが、これも確かな証拠とはならない。
以下は、筆者が新規に入手した情報である。@は【吉田家文書】から読み取ったもので、横浜の研究者からはあまり注目されていなかった。Aは【順立帳】の記載と【正業寺過去帳】を照らし合わせることによって得られたものである。
@ 両新田の相続の訴訟、吉田新田の土地保有に関して三郎兵衛が関係している
A 明治の頃、大阪に砂村家があった
筆者の仮説は「新左衛門の墓碑左側面の宗心は三郎兵衛である」「新三郎・新四郎ともに三郎兵衛の子で新左衛門の甥であった」また「新三郎は大坂の三郎兵衛家を継ぐため、その子に新三郎家を継がせた上で大坂に戻った」、そして「新三郎・新四郎の子は新左衛門の養子となって遺産を相続した」というものである。次弟新右衛門には妻子がいたという形跡が全くないし、別家を構えた形跡もない。そういう身の上であったから、新左衛門の関東進出の際に同行したのであろう。本来、新左衛門がこのような事業を行う上で必要な人材は「働き盛りの男」のはずである。「人生五十年」と言われた時代に、五十男を多数連れてきても効果的ではないが、妻子がいなかったので連れてきたのであろう。実際のところ新右衛門はあまり表には立たず、砂村新田開発のリーダー新四郎のサポートに徹していた節がある。因みに内川新田開発のリーダー新三郎には手代の久兵衛という者(後の中島久三郎家先祖)をサポート役としてつけたようである。一方、三郎兵衛には既に大坂時代に妻子(さらには妾も)もいたというほうが自然である。ということは大阪で三郎兵衛家を確立していたはずである。明治時代まで大坂に砂村家があったということが、そのことを物語っている。大坂の砂村家の存在は【正業寺過去帳】に示されている。そこには「明治時代に大坂西成郡曽根崎村の砂村太兵衛が野比の浜で死んだ」ことが記載されているのである。太兵衛のことは明治二年(一八六九年)の【順立帳】の記述にも大坂で名主の家だったことが記されている。大坂で三郎兵衛家を確立していたとすれば長男は跡継ぎとして大坂に残した可能性が高い。大坂で三郎兵衛家はいつの頃か絶えて、太兵衛家が名主になったと思われる。
しかし論理的に考えれば「開拓誌」における推理には無理がある。一方の側面の宗悦が弟新右衛門であるならば、他方の側面の宗心はもう一人の弟三郎兵衛と考えるほうが素直である。宗心のことが過去帳に出てこないのは、遠く大坂で死んだからであろう。江戸で死んだものについては善照寺まで行けばすぐ分かることである。宗徹については後述するが江戸で死んだはずの「甥」の初代新四郎であると思う。
家族について
なお初代三郎兵衛は、隠居して二代目に大坂の仕事を任せていた可能性も高い。従って、新左衛門にも新右衛門にも子がおらず、新三郎と新四郎が新左衛門の弟でも子でもなく、ほかに弟がいないとすれば新三郎と新四郎は三郎兵衛の子供と考えるのが妥当である。ただし、その後の両家の諍いを見る限り、一方例えば新四郎が三郎兵衛の妾の子供(異母兄弟)であった可能性はある。いずれにしても「新四郎・新三郎は三郎兵衛の子」という仮説がもっともらしいと言える。そして、「法名宗心が新左衛門の弟」とするのがもっとも自然なのである。新右衛門も三郎兵衛も新左衛門のすぐ後で死んだので、子孫が、兄弟仲よく永眠して欲しいという気持ちを込めて墓碑に法名を刻んだのであろう。正業寺に宗心の過去帳などがないのは、大坂に正式な三郎兵衛の墓、過去帳があったからであろう。
なお、新左衛門の死後、三郎兵衛の名前があちこちに登場する。寛文十一年(一六七一年)の【売渡し申新田田地手形之事】という文書で、三郎兵衛が吉田新田の土地を売っていることが示されている。延宝五年(一六七七年)の【砂村新田内割絵図】には三郎兵衛が砂村新田近くに土地を所有していたことが記載されている。延宝七年(一六七九年)の【内川新田の水帳】(「開拓誌」記載)に、新四郎、新三郎についで三郎兵衛の署名が見られる。初代三郎兵衛は前記仮説に従えば延宝二年には死んでいるので、二つの文書は死後のこととなり、二代目であることをうかがわせる。初代の可能性もないわけではないが、開発に携っていなかった人間が遠く離れた関東で重要書類に署名したり、土地所有者になったりするというのは不自然である。なお三郎兵衛に並んで署名している新四郎、新三郎は二代目のことである。すなわち新左衛門の死の前後に、大坂の三郎兵衛家に異変が起きて(例えば三郎兵衛が病気になるか、跡継ぎが早死にして)、初代新三郎が三郎兵衛家を継ぐために帰ったと考えればつじつまが合うのである。そうすると内川新田開発のリーダーであった初代新三郎改め二代目三郎兵衛が、関東における重要な局面で顔を出すのは不思議でもない。吉田新田の土地名義は当初新左衛門であったとするのが自然であろうから、その死後二代目三郎兵衛(初代新三郎)名義で相続していたのであろう。
新左衛門は寛文七年(一六六七年)の死の直前、寛文五年(一六六五年)、六年(一六六六年)と立て続けに【遺訓】を書き遺しているが、遅くともこの時期までに嫡子のいない新左衛門は跡継ぎを指名していたはずである。二代目の新三郎、新四郎を対等な相続者に指名し、「両人が仲良く財産を分け、それぞれ新三郎家、新四郎家を起こして末永く繁栄させることを望む」旨伝えたことは想像に難くない。新左衛門はあまり欲のない人間だったようだ。普通なら誰か一人を指名して砂村新左衛門本家を継がせ、もう一人に分家させて序列をつけた上で遺産相続させたろうに。
なお筆者が推理した先祖、子孫等の関係をする砂村家の家系図として本章冒頭(*)に掲載した。