三国について
【三国浦絵図】の木場町の河岸とは反対側には切り立った崖が描かれていて、木場町が埋立てではなく山を崩してできた土地であることをうかがわせる。正確には「山を崩して河岸を埋め立てた」のかもしれない。しかし絵図と上記の方角に関する記述には矛盾があって、開拓後の町並みについては、時代によって変遷があったのかもしれない。
大坂時代に関する記録も三国時代同様に非常に少ない。【片聾記】では「黒船運上の請負を仕り、三国は妾腹の忰に取らせて、大坂に数年罷り在り候ところ黒船運上相止め申す故願い申し上げ」とあるのみである。「開拓誌」でもこれ以上の記述はない。黒船がどんな船であったのか、黒船運上請負がどんな仕事だったのかについては、資料がなく全く不明である。
また「開拓誌」では「新左衛門が郷土大阪の上福島天満宮を万治三年勧請したものと伝える」と記されているが、これは久里浜天神社の記録に基づくものと思われる。福島天満宮(旧呼称は上ノ天神)がこれに該当するものと思われるが、ここも明治時代の大火であらゆる文書を消失しており、大阪にはなんらの記録も残っていない。
三国にも新左衛門がいたという形跡はほとんど残っていない。【片聾記】に「三国へ罷り出、ただ今木場と申すもこの新左衛門築立候由、その後黒舟運上請負仕り、三国は妾腹の倅へとらせ・・・」とあるのが唯一かもしれない。
また木場町を開拓する少し前に、忠昌公に英勝院墓参のための鎌倉の屋敷を献上しているが、そのことは【片聾記】に以下のように記されている。「鎌倉ニ御屋敷壱ケ所御立山壱ヶ所有之候鎌倉よりハ七里斗有之鎌倉郡内川砂村と申所に候當御代ニ元祖新左ヱ門と申者指上候」・・・三浦郡を鎌倉郡と間違えてはいるが・・。ここは隆法院(忠昌の法名)に新田開拓資金を借りたお返しのようなことが【片聾記】に書かれているが、詳しくは後述する続片聾記(翻刻)を参照されたい。
なお水神社は【新編相模国風土記稿】では「水神社 神体立像延宝中 砂村新四郎(新左衛門の子)勧請す」とあり、一方で「寛文五年に大阪上福島天満宮相殿たる天照大神を新左衛門が勧請した」という説もある。これは一見矛盾しているように見えるが、両方とも正しい(創建と修復の記録)のではないかと筆者は推理する。
新左衛門は寛文七年(一六六七年)内川新田に建てられた石碑において、「水神応護為子々孫々諸人現当二世安楽也」と記しており、まだ新四郎が内川新田に来ていなかったときに水神社があったことをうかがわせる。また明治時代に天神社に合祀されるまでは、水神社は新四郎(与兵衛)の屋敷の中にあった。常識的には屋敷地の中に社、それも村人がお参りするような神社を建てることはなかろう。つまり、水神社がある場所近くに後で家を建て周辺を屋敷としたと考えるほうが合理的である。つまり【新編相模国風土記稿】の記述は、水神社を建立したというものではなく、後になって水神社を改修したことを記述しているとすれば矛盾はないのである。久里浜天神社の宮司早川氏も水神社は開発の前後に建立されるべきもので、延宝の建立はあり得ないとしている。
井形氏がもう一つ注目したのは、砂町より下流やはり北岸に真宗の西善寺という寺があり、その対岸に西本願寺舟入という場所があることであった。寺伝によると、同寺は江戸時代初期に船一艘を持って盛んに北陸方面へ布教活動をすることを認められており、不退丸という大船だったらしい。この不退丸と三国湊が新左衛門を大坂に結び付けたのではないかというのが氏の仮説だ。私はこの話と【片聾記】にある「黒船運上請負」という話を同一のものとして結び付けてみた。すなわち「黒船運上」は西善寺の免許であり、新左衛門はその請負(つまり運航及び通商)をしていたのではないかと推理するのである。
木場町については【三国鑑】に記述があり、「木場町 慶安元戊子年人家建」とされているので、慶安元年に新左衛門の開拓が完工したと推理した。また「町内治定改方記録」という文書には砂村屋鋪の記述があり、「砂村屋鋪 西ハ御番所境ヨリ東ハ木場七軒屋迄也 此屋鋪長サ弐拾八間幅廿九間 但北ハ山本ヨリ南ハ川端マデ 町之端三間とも 右同所ニ長サ十五間幅八間御番所之裏出村境まで入込矢鋪有 右三国御高之内慶安元戊子年人家建 同所続木場片町七軒長サ弐拾三間也幅八間北ハ砂山下ヨリ南は町通リ迄西ハ砂村屋鋪境ヨリ東ハ砂山ノ端マデ 右三国御高之内寛文十一年亥年人家建込七ヶ年後屋鋪相成」とあって、どちらか一方が他方を引用しているものと見られる。
大坂について
三国の「みくに龍翔館」にある江戸時代中期の【三国浦絵図】には木場町の外れの川口御番所裏には「砂村屋鋪」という記述が見られる。これが、新左衛門がこの地にいたという唯一の(三国に残る)証拠であろうと思われる。このことは「龍翔館だより」に記載されている。横須賀ではあまり知られていなかった事実である。
以下は、江東区在住で郷土史家の宇田川純正氏の調査に基づくもので、宇田川氏から資料とその解釈の提供をいただき、筆者が若干の推理を加えたものである。宇田川氏は大阪市福島区の郷土史家井形正寿氏に資料の有無などを尋ねられたが、大阪の郷土史家の間で新左衛門のことが取り上げられたことはないと聞いた。そこでの井形氏の仮説は「曽根崎川の河岸に明治期まで砂町という地名があり、これが新左衛門の開拓したところではないか」というものである。文化三年(一八〇六年)の【増修改正攝州大阪地図】には、上の天神(今の福島天満宮)のすぐ側に、「上砂町」「下砂丁(町)」という表記が見られるのだ。井形氏がこれを新左衛門の開拓した土地だと推定しているので、筆者はこれを採用した。ここはいわゆる旧淀川がいくつもの支流に分かれて流れていた北端に位置する。その最下流は安治川と呼ばれていたが、その上流で中之島を挟んで北側の堂島川、南側の土佐堀(川)に分かれていた。その堂島川に北側から注ぐ川が曽根崎川(通称蜆川)で、砂町や上の天神はその北岸側にあった。上砂町から南側には梅田橋という橋が架かっていた(内川新田の一つの橋に梅田橋という名前が付けられているのは偶然ではなかろう)。
ほかに宇田川氏に教えられた明治時代の東京府最初の公文書【順立帳】には、砂村一族が昔上福島において五百石の新田を開拓し、その後幕末から明治初期にかけて、砂村太兵衛という名主がいたことが述べられている。一方、内川新田【正業寺過去帳】には「曽根崎村から来た砂村太兵衛が野比の海岸で死んだ」ことが記述されていて、このことを裏付けている。当初は砂村三郎兵衛家が名主だったが、いつの頃か砂村太兵衛家が名主を継ぐようになったようである。【順立帳】の文書は砂村新田の砂村家末裔の伝承に基づくらしく、新四郎を中心に展開されている(内川新田や上福島の話も含めて、新左衛門も新三郎も出てこない)。
いずれにしても、しばらく上福島村ないしは曽根崎村に砂村家が続いていたのは確かのようであるが、これ以上の情報はない。福島天満宮でも直接取材してみたが、以前の大阪の大火ですべてが焼失しているとのことで、残念ながら新しい情報は得られなかった。従って、上記の大坂での砂村一族の業績などはほとんど仮説の域を出ない。