第四章
その他の新・再発見と新仮説

内川新田の開拓

 【新編相模国風土記稿】には「堤上に碑あり、寛文五年建つ(開発の事蹟を勒す、今文字剥落して読むべからず)」とあるのは別物である。今残っている碑は明治時代まで二つの樋門の中間にあったものであり、樋門の安全を祈るのに堤防の上に置くはずがない。また天保年間に文字剥落していたものが、今読むことができるのはおかしい。堤の上の樋は堤の安全を祈念するものかもしれないが、これこそ新田開発成就記念碑だった可能性のほうが大きい。寛文五年(一六六五年)は小作を希望するものは新左衛門と相対契約するように奉行所のお触れ(高札)が出たときだからである。以下はその写しの全文である。

一 内川新田并栗濱八幡原新田新畑望之者ハ新左衛門相対にて出作可仕候事

一 右所々に植置竹木抜捨申もの於有之は早速御番所に可致注進候事

一 新田新畑御縄入候場所江牛馬はなし作毛あらし申間敷候事

             寛文五年二月  奉行

 内川新田の着工時期については明確な記録がない。【新編相模国風土記稿】では「万治中砂村新左衛門と云者官許を得て開墾す、同三年検地あり」とされているが、万治二年(一六五九年)は完工のことを指しているものと思われる。寛文七年(一六六七年)の石碑には門樋の成就後年々破損に及び八年苦労したと記されている。ということは樋(今の夫婦橋あたり)ができたのは万治二年(一六五九年)頃ということでやはり完工の時ということであろう。「開拓誌」における内川新田の開拓開始の時期についての記述はあいまいである。

 なお、久里浜天神社宮司の早川氏は「やはり夫婦橋に残る樋と風土記稿に記される堤上の碑は同一」と主張している。その理由として「大事な碑が捨てられるはずがない」、「風土記稿の取材の際、二つの碑があることを見落とすはずがない」、「二年しか隔てず建てられた同じような二つの碑の内、一方だけ文字が剥落し他方はその後百年を経てもしっかり文字が残っているのはおかしい」ということを挙げている。したがって早川氏は「夫婦橋に残る碑はやはり内川新田完成記念碑だ」と主張している。その理由は「蒙佛神夢想という表現は広大無辺な力を戴いたときに成就するという意味で使われる言い回しであって、石碑を建てるだけの理由とは考えられない」というものである。【新編相模国風土記稿】の執筆者が「寛文七年を五年と読み違え、樋の間を堤の上と間違え、樋に関する記述だけで開発の事蹟だと思った」とすれば、成立する仮説であるが、私は同意し難い。

 内川新田は新左衛門の死後、新三郎家と新四郎家の両家が名主となってしばらく続いた。延宝七年(一六七九年)には前々年の砂村新田に続き出入の裁定があり、新三郎家と新四郎家がきっちり同じ面積の田畑を所有することになった(第三章参照)。元禄年間(〜一七〇三年)になって鴻巣勝願寺の然蓮社廓誉上人が正業寺の住職となって再中興され、元禄十一年(一六九八年)七月には新四郎家新三郎家共同で本堂が新たに建立された。寛政年間から文化年間にかけて宮井与兵衛家、砂村善六家が名主になって続いた。これらはいずれも記録に基づくもので筆者の推論ではない。与兵衛家が新四郎家から田畑屋敷を買い取った経緯は【山内家文書(元宮井家文書)】に記されている。善六家が新三郎家の後を継ぐことになった経緯は、【野比最光寺に残る過去帳】に記載されているが文字が読めず詳細は不明である。

 どうもこの時期には樋門から上流側の内川新田と下流側の八幡原新田は区別されていたようである。なお石碑でも「相州三浦内川新田並八幡原新畑」と書いてあり、やはり区別されているのである。

【順立帳】の記載も、開発の順序は相州内川新田から摂州上福島そして武州砂村新田の順になっている。この記載は砂村新田の砂村家末裔の記録または伝承に基づいて書かれたものと思われるので必ずしも正確ではないが、傍証にはなるだろう。

 一方、それより遡ることおよそ二十年前の寛永年間(〜一六四二年)後期に、新左衛門は正業寺を再興している。【順立帳】でも内川新田を開拓した後、大坂上福島で開拓し、その後砂村新田を開拓したように書かれている。つまり江戸に出てくる随分前に内川新田を着工していたと解釈できる。樋門の下流(当時はまだ入江)の岸に潮除堤があった(実際に明治時代まで土手があった)と【新編相模国風土記稿】には書かれているが、この土手が築かれた時期には触れられていない。

 どうやら、新三郎家と新四郎家の屋敷や天神社のあるあたりの樋門より下流側の内川新田は、樋門ができるよりずっと前に開拓されていたのではないかと思われる。つまり下流側は潮除堤を作るだけでよい簡単な工事であったと推定される。ここには隣接の久里浜八幡村の飛び地(丸畑)があったぐらいだから、周辺の砂地は元々時折潮が上がってくる陸地だったのではなかろうか。そして万治年間になって砂村新田開拓の利権を得ることにより資金的な目処が得られたので、堤防の上流側に樋門を設けて上流域の内川入海全体を開拓することになったとすれば、時期的な辻褄が合ってくるのである。つまり、最初に八幡原と呼ばれる下流域を開拓して八幡原新田とし、その後上流の内川の入海を開拓して内川新田とし、しばらく後に両新田あわせて内川(砂村)新田と呼ばれるようになったのであろう。

 石碑は「門樋成就記念碑」という名前で呼ばれているが、そのような名前は碑には書かれていない。それどころか前述のように「成就後八年苦労」したと書いてあると解釈すべきである。従って、「石柱を成就したので水神に子孫達の今後の安楽を願う」という風に解釈すべきであろう。新左衛門はそのころ死期を悟っていたので、気懸かりだった門樋のことを神に祈ったのだと思われる。だから、むしろ「門樋安全祈念碑」とでも名付けるべきではないかと思う次第である。

 石碑は笠塔婆と言われる形式である。これは墓地にもよく見られる形式である。区切りの法要に際して立てられることもよくあったようだ。これは先祖に敬意を表するとともに、子孫の繁昌、無事を祈ったものである。つまり「お祝い」という意味がないわけでもないが、「お祈り」という意味のほうが強いと言える。

内川新田のその後

 新三郎家と新四郎家が続かなかった最大の理由は、樋門や堤防の破損、川の氾濫による不作で度々年貢が納められなかったことにある。新左衛門が心配した治水は近代になるまで完全な解決を見ることはなかった。与兵衛の時代に二宮尊徳が内川新田に興味を持ち、内川新田を再開発するという話が持ち上がったが、直後に尊徳が亡くなってしまい実現することはなかった。そして昭和の後期にいたるまで平作川はたびたび氾濫し、本格的な護岸工事によってようやく治まった。

 なお、内川新田の上流側(今のJR久里浜駅あたりから北側)は昭和十年(一九三五年)に国が接収して一時、別名「久里浜リンクス」あるいは「宮様ゴルフ場」と呼ばれる「久里浜ゴルフ場」が作られた。しかしすぐに閉鎖され練兵場となり、終戦直前には再び耕作地となった。ゴルフ場跡はその後工業団地となり今に至っている。内川新田の町名は一部に残るが、ほんのわずかな場所であり、多くは久里浜という町名に変わった。

 また樋門のあった場所は今の夫婦橋の場所より少し上流側(人道橋付近)にあって、浦賀と野比を結ぶ道もそこを通っており、国道から京急久里浜駅寄りのたそがれ横丁や黒船商店街(仲通り)の道が旧道である。今の国道部分は海軍が軍用道路として旧道の東側に整備したものである。

 樋門から下流側は大正時代までは海(内川の入江と呼ばれる浅瀬)であったが、関東大震災のときに隆起し、そのまま埋め立てられたので入り江はなくなり川となった。今、久里浜郵便局がある辺りは新四郎家(後に宮井与兵衛家)の屋敷跡であるが、ここが以前は海岸であり、【新編相模国風土記稿】に記される堤はここにあった。新四郎家に隣接して天神社に至るあたりまでは新三郎家の屋敷跡である。今は久里浜中央自動車学校とイオン横須賀久里浜ショッピングセンターの複合ビルが大半を占めている。久里浜中興に貢献した新三郎家の跡地に来たイオンは久里浜再中興に貢献することが期待されている。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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