第四章
その他の新・再発見と新仮説

吉田新田について

売渡シ申新田田地手形之事

合田地拾三町弐反九畝五歩 但所ハ弐ヶ所ニ有

右ハ金沢領吉田新田我等持分之高也金百五拾両ニ永代売渡シ只今金子不残請取申候以来諸親類者不及申横合より少も構有之間敷候若以来何事ニ而さまたけ有之共我等罷出埒明可遣申候為後日仍如件

寛文拾壱年亥ノ正月九日  証人   砂村三郎兵衛

                        吉田勘兵衛         井上助左衛門殿

                   

売渡シ申新田田畑地之事

合田畑地拾三町弐反九畝三歩 但所ハ弐ヶ所ニ有

右者其方吉田新田之内ニ我等買申持分之高也金百五拾両ニ永代売渡シ唯今金子不残請取申所実正也以来少茂相違有間敷候為其右之売渡シ手形茂相添置候為後日仍如件

寛文十二年子之三月十一日  売主 井上助左衛門

       吉田勘兵衛殿

 新四郎家が内川新田に移った後も、砂村新田の名主砂村家がしばらく続いていたようである。おそらく新四郎家の分家が名主を継いだものと思われる。【順立帳】には幕末頃、砂村金三郎という者が名主(伯父の好三郎が後見人)を務めていたと記載されている。

 吉田新田に関する勘兵衛の子孫である吉田家に伝わる【吉田家文書】に詳しく残っていた。しかし関東大震災のときの火災で多くを焼失してしまい今は一部しか残っていない。特に「勘兵衛日記」と呼ばれるものが焼失したのは大変悔やまれる。新左衛門については吉田新田ではあくまでも脇役であり、「砂村新左衛門という者が新田開拓再開に当たって技術または企画を担当した」という程度に取り上げられたに過ぎない。一方、内川新田では、吉田新田のことは主題ではなく、「新左衛門は吉田新田の開拓にも関わった」という程度にしか取り上げられていない。

 砂村新田はその後多くの武家、町人が所有し、また転売することになるが、大部分の土地は畑であった。新左衛門が「宝六島新畑」と呼んでいるように、田よりも畑が圧倒的に多かった。その後江戸時代を通して、砂村新田は江戸の台所に野菜を供給する一大産地となった。砂村の茄子、西瓜、葱、かぼちゃ(唐茄子)などは大変美味しいともてはやされた。式亭三馬の「浮世風呂」で行商の八百屋が「この唐茄子なんぼ」と値切る客に啖呵を切る・・・「あい、これにしなせえ、こりゃあ砂村だあ、いくらも持ってくるが、こういうなあねえ、わっちらが持ってくるものは、ほんのこったが出が違わあ」と・・・。

 また新左衛門が八幡を勧請した富賀岡八幡あたりは「もとはちまん」と呼ばれたが、大変景色のよいところとして江戸っ子に持てはやされた。「砂村元八まん」は歌川広重の名所江戸百景にも描かれている。この絵でも分かるように八幡から先は洲のような場所で耕作地ではない。新左衛門が開拓したときはこのあたりを東西に横切る土手が作られていて、そこから海側は洲で杭が打たれているだけの海同然の場所であった。その後、元禄年間になってようやく幕府が海側に堤防を築いたと言われる。北から東に流れ中川(今は少しずれて荒川)に注ぐ砂村境川(今は道路)、東側の中川、西側の十間川、南の海(今は埋立地)で囲まれる場所が砂村新田と呼ばれる場所であったが、近代になって砂町と呼ばれる頃は北側の古新田も含まれるようになった。砂町はその後北砂・東砂・南砂に分かれたが、元の砂村新田は南砂の全部と東砂の一部である。

 練馬区在住の砂村力氏から、宇田川氏を経由していただいた過去帳の情報によると、最も古い記録は「万治元年 妙誉信女」で砂村新四郎の一族だと(後に)書き込まれている。この家もやはり新四郎家または金三郎家の傍系と思われるが確かではない。万治元年(一六五八年)は新左衛門の妻(法名妙忍)が亡くなった二年前のことであり、年齢と法名の類似性から最も可能性があるのは初代新四郎の父、すなわち新左衛門の弟三郎兵衛の妻または妾である。わずかに初代新四郎の妻または妾の可能性も残る。しかし、俗名の情報や万治年間以降の記録も飛んでいて(記載されておらず)確かなことは分からない。当家(砂村吉助)の初代は文化年間(一八〇四年〜)に亡くなったとされているので、それより前の代については別の過去帳から転記されたものであろう。

砂村新田のその後

 私は数少ない【吉田家文書】の中の一部の文書から、勘兵衛と新左衛門の契約関係を推理した。しかし、それ以外の勘兵衛と新左衛門の関係は資料的根拠のない筆者の推理である。参考にしたのは武相叢書「横浜旧吉田新田の研究」で石野瑛氏が紹介している日記の抜書き「万治二年己亥 二月吉田新田追願叶 二月十一日鍬初 砂村新左衛門右代金元吉田勘兵衛・・・」という部分と、文書「寛文十一年 正月九日 売渡申新田地手形之事 砂村三郎兵衛出 井上助左衛門宛」と「寛文十二年子之三月十一日 売渡シ申新田畑地之事 井上助左衛門出 吉田勘兵衛宛」である。ここに出てくる三郎兵衛は初代新三郎のことであると推定した。初代三郎兵衛はまだ存命中であったが隠居していて、既に初代新三郎が大坂に帰って二代目三郎兵衛になっていたと考えるのが最も合理的だからである。関東の新田開拓に関わらなかった、そしてこの時期かなりの高齢になっていた初代三郎兵衛が、関東におけるこのような重要な契約に顔を出すとは思えないからである。石野氏の著書に紹介されている、砂村家所有だった土地の譲渡を示す文書を以下に転載しておく。井上は一時立替した模様である。買い取りたい者が資金不足のときに、このような取引がなされることはよくあるようで、利子相当の謝礼は別途契約になっていたものと思われる。その後、しばらくして吉田新田のすべての土地は勘兵衛一族によって所有されることになる。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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