第一章
砂村新左衛門の生涯

攝州上福島時代

 

 そしてあるとき突然、江戸での大きな仕事が発生します。そのきっかけは明暦三年(一六五七年)正月の江戸の大火(明暦の大火とも振袖火事とも呼ばれる)でした。この火事で江戸城の大部分や江戸市中のほとんどの建物が焼失します。このとき老中松平伊豆守は懸案であった江戸の再開発(区画整理)に着手します。それまで江戸は幕府開設以来の急速な発展の中、乱開発が進み、将来に向けての発展に支障が出ていたのです。そういう意味では大火は「災い転じて福となす」千載一遇の機会であったわけです。そこで伊豆守は全国に号令を発して多くの土木技術者達に、江戸に集結するよう呼びかけたのです。新左衛門はこれを絶好の機会と捉えて、弟達を引き連れて本格的に関東に進出する決意を固めます。そして病弱だった妻の面倒と大坂の農地経営を弟三郎兵衛に頼み江戸に向うのでした。新左衛門は既に五十歳を過ぎて当時としては老年に達していましたが、新田開拓に懸ける情熱はまったく衰えていませんでした。

 新左衛門はいわば退職金のような形で廻船業下請けの権利を貰いました。この船は北前船のような本格的な商船というより、三国湊と大坂湾を結んで真宗(西本願寺)の布教のついでに相互に産品を運ぶというようなものでした。摂津国の上福島(現在の大阪市福島区)の曽根崎川(旧安治川支流)にその船泊まりがあり、船泊まりの対岸には西本願寺末寺の西善寺がありました。新左衛門は廻船業よりも新田開拓が主目的で大坂に来ましたので、曽根崎川上流の河岸で、砂河原を新田にする開拓に着手しました。その結果高五百石の新田を得ることができたので、砂村一族はしばらくそこに本拠を置き、廻船の運航、農業、各地の開拓請負と三足のわらじを履くようになります。そして数年後、廻船業下請けの権利は返上し、上福島の新田経営はここの開発リーダーであった弟三郎兵衛に任せて、新左衛門は関東を中心に活動するようになります。新左衛門には嫡子(正妻の男子)がいませんでしたから、三郎兵衛の子新三郎と新四郎、そして妻帯していなかった弟の新右衛門らを連れて、各地で新田開拓の活動をしました。多くの場合、各藩に雇われて各地の干拓を企画、工事指揮するというものでした。このことによって砂村一族の技術力は各地で知られるようになっていきます。しかしあくまでも、自らの資力で開発していた三浦の内川を開拓事業の中心的な拠点として活動していたのでした。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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