第一章
砂村新左衛門の生涯

武州葛飾時代

 

 伊豆守は区画整理で邪魔になる大きな寺社を江戸市中から郊外に移すことにします。その中で霊巌寺などは後に寺町とも呼ばれる深川の地に移されることになります。しかし霊巌寺に与えられた土地は河原に毛の生えたような未開の地でした。新左衛門は霊巌寺の移築工事を担当するよう幕府から命ぜられました。砂村一族は三浦の内川を仮の本拠地として新田開拓を進めながら、江戸深川あたりにも住まいを持って霊巌寺の敷地の工事を行うことにしました。

 霊巌寺は寛永元年(一六二四年)に雄誉霊巌が創建した浄土宗のお寺です。霊巌は徳川家康、秀忠、家光と三代の将軍から篤い信頼を得ていたと言われ、当時の霊巌寺は霊岸島(現中央区)にありました。霊巌寺三世の大誉珂山上人は土木に関する知識もある高僧で、移築工事を担当するようになった新左衛門と意気投合します。信仰心の強かった新左衛門は、その後大誉上人を人生の師と仰ぐようになります。明暦元年(一六五五年)に千葉生実の大巌寺から来たばかりで火災に遭遇した大誉はこの当時七十歳を過ぎた高齢であったため、弟子の珂碩に工事の指揮を取らせますが、実質的には新左衛門が取り仕切りました。新左衛門は木材や石材を寄進する商人を探して来ましたので、霊巌寺にとっては大の恩人でもありました。新左衛門は幕府から僅かな報酬を得るだけでしたが、粉骨砕身して霊巌寺の早期復興に努めました。

 伊豆守は新左衛門に褒美を取らせるよう部下に命じました。何か欲しいものがあるかと尋ねられた新左衛門は、即座に「江戸の近くで新地開拓を許可して頂きたい」と申し上げました。もちろん大火災を受けて幕府の財政も火の車でしたから、金子を与えるようなことはできませんでしたので渡りに船とばかり、深川から南の海岸近く武蔵国葛飾郡の宝六島あたり(現在の江東区南砂)の寄り洲開拓の権利を新左衛門に与えました。

 新左衛門は以前から知り合いであった勘兵衛という江戸の木材石材商とも頻繁に会って情報交換しました。勘兵衛は摂津国の能勢(現在の大阪府能勢町)から出てきて成功を収めた幕府御用達の木材商でしたが、やはり非常に信仰心の篤い人間であったので、新左衛門と意気投合したのでしょう。この人脈を中心に石材や木材の調達(寄進)を得て霊巌寺の移築はほどなく完成しました。勘兵衛は以前に武蔵国久良岐郡(現在の横浜市)の地で新地開拓に挑戦していましたが台風の襲来などによって失敗に終わっていました。勘兵衛は自ら寺社を創建することを目指していましたが、そのときは断念せざるを得ませんでした。しかし明暦の大火で木材の価格は高騰し、新地開拓の失敗で資金不足に陥っていた勘兵衛は再び巨万の富を得ました。勘兵衛は当時の豪商とは違って、利益を社会に還元することを生き甲斐にしていたので、霊巌寺に対しても喜んで木材や石材を寄進したのです。霊巌寺移築は万治元年(一六五八年)には完了し、大誉上人は新左衛門の働きにいたく感激し、恩義を感じましたので、このことを伊豆守に報告しました。

 これは幕府にとっては単なる褒美ではなく、一石二鳥の策でした。その後の江戸の発展を展望すると、新たな耕作地や居住地、あるいは新たな税収源の確保は必要不可欠でした。しかし幕府が自ら開拓するには資金がありませんでしたので、民間人による開拓を奨励しました。以前から新田開拓における「民活」は始まっていましたので特例というわけではありませんでした。そして、更に伊豆守は新左衛門に出資者を紹介しました。当時、多くの大名や旗本はあまり資金力がありませんでしたが、一部の者は利権や特定の事業で得た余剰資金を持っていましたので、彼らに先行投資させたのです。今で言えば、官庁が公務員に企業の未公開株を買わせるようなもので、あり得ないことですが、当時は普通に行われていました。当時多くの旗本たちは非常に低い禄で働かされていましたので、幕府としても彼らに他の収入源を与える必要があったわけです。出資者は新田開拓が成功した暁には応分の土地をもらえるのです。この土地は江戸に近く容易に転売可能であり、周囲まで既に開拓が進んでいるいわばローリスクの開発への投資でしたから、多くの出資者が集まりました。多数の大名旗本たちの中には伊豆守の身内や新田開拓に関する権限を持つ奉行経験者などの名前も多く見られました。

 これによって新左衛門は三浦内川の開拓資金も得ることになります。そこで内川の開拓を新三郎に任せて、新四郎を宝六島周辺の開拓の責任者とすべく江戸に呼び寄せました。これによって新三郎が相模国三浦(後の内川新田)開発の監督、新四郎が武蔵国葛飾(後の砂村新田)開発の監督、新左衛門が総監督、新右衛門が補佐役・・という体制を固めたのです。

 そして間もなく宝六島新田(炮烙新田とも呼ばれ、後に砂村新田となった)の開拓は成功を収めました。万治二年(一六五九年)の検地によれば高四百三十四石とされています。後になって海岸まで開拓されましたが、当時は途中に堤防が設けられ、そこから先は洲とも海ともつかない状態で、辛うじて杭を打つことによって所有権が主張されていました。その後、砂村新田(特に堤内)は大きな問題もなく江戸の食を担う有名な野菜産地として発展を続けました。

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目次 
第五章 
第四章 
第三章 
第二章 
第一章 
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あとがき 
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