武州野毛・相州内川における新田開拓
江戸で知り合った木材石材商勘兵衛は再び武蔵国久良岐郡の野毛あたり(現在の横浜市中区)で新田開拓に挑戦しようとしていました。旧大岡川が江戸湾に注ぐ前に形成されていた釣鐘状の内海の干拓に再挑戦しようとしたのです。木材価格の高騰で得た富を再び新田開発に注ごうとしていたのです。勘兵衛はかなりの資金力を持ってはいましたが、事業の確実な達成のため半分の資金は他者から調達することにしました。また、二度と失敗を繰り返すことはできないと思い、新左衛門に設計と工事監修を依頼したのです。そこで万治二年(一六五九年)の工事再開に当たって新左衛門と契約を結びます。新左衛門に名目上資金提供者になってもらい、その資金を勘兵衛が立て替える形にしたのです。資金は合計十口、その内五口を勘兵衛が負担し、残り五口を他の出資者が負担し、開発成功時は口数に応じて土地を所有するというものでした。すなわち工事が成功したら新左衛門は十分の一の土地を得られるが、それまではわずかな報酬しか得られないという契約でした。これは今で言う、ストックオプションに似たシステムであったと思われます。もちろん当時ストックオプションと同一のシステムがあったというわけではありませんが、現在の株式会社に例えるなら次のようなことになります。
「勘兵衛新田株式会社は創業者社長の勘兵衛が資本金(株)の十分の六を出資して、出資者四人に十分の一ずつを出してもらい株主になってもらった。新左衛門を技術担当役員に迎えたが、事業の成否がはっきりしない時点では十分な報酬を払うことはできなかった。そこで十分の一相当の株を新左衛門にストックオプションとして与えた。これは会社の価値(時価総額)の十分の一を意味するわけだが、会社の資産は土地だけなので十分の一の土地の権利を持ったことに等しい。しかし、新田開拓に失敗すればその株券は紙くずになってしまう。成功して農地になれば資本金以上の価値を持つようになる。価値が上がればこれを売って大きな利益が得られることになる。もちろん他の出資者もリスクのある新田開発の成功に賭けて、うまく行けば未公開株が公開されたら差益で稼げる。」というわけです。
そのころ時を同じくして相模国三浦の内川の入海でも新田開拓が進んでいました。そして万治三年(一六六〇年)には一応の完成を見て、その年の検地では高三百六十石余でした。しかし、野毛の新田も内川の新田もそう簡単なものではありませんでした。当時関東地方をたびたび襲った台風や春の嵐による樋門の流失や堤防の決壊が続き、耕作地としての完成には容易には届きませんでした。それでも新左衛門は着々と村づくりを進めていきます。万治三年(一六六〇年)六月には隣の八幡村にあった神社を新田側に移し、そこに攝津国上福島の上の天神(今の福島天満宮)から菅原道真公の分霊を勧請して、天神社(現在の久里浜天神社)を設けました。これで正業寺とあわせて村のお寺とお社ができたわけです。また上の天神と砂町(砂村一族の開拓した河原)のすぐそばの曽根崎川にかかる梅田橋に因んで、内川新田の上流側に作った橋に梅田橋と名付けました。しかし翌月の七月、寝込んでいた妻がついに亡くなってしまいます。新左衛門は悲報に涙しましたが、大坂で妻の葬儀を行った後、涙も乾かないうちにすぐに三浦に取って返します。検地を終えているとはいえ、まだまだ改良を要する内川新田は新左衛門にとっては何物にも代えられない命そのものだったのです。
新左衛門は砂村新田に家を持っていましたが、内川にも仮住まいして増水や高潮の対策に没頭しました。堤防の近くには水難がなくなることを祈って水神社を祀りました。
内川の入海がちょうどくびれたあたり(今の夫婦橋付近)に設けた樋とその下流北側の海岸の堤が最も重要な場所でした。水神社のすぐ北側の海岸には長さ七十間余、高さ六尺の堤防を築きましたが、こちら側の地面(八幡原)は元々ある程度高さがありましたので、さほど大きな問題にはなりませんでした。しかし樋についてはずっとトラブルが続きました。樋は二門(上に架けられた橋はそれぞれ長さ六間)あって、それぞれに掛け戸(長さ七尺、幅五尺余)を設け、満潮時は閉まって海水が上るのを防ぎ、干潮時は開いて上流からの水を海に流すというものでした。それでも、通常時はともかく大雨による増水や台風による高潮に耐えられるようにすることは至難の業でした。そしてようやく寛文五年(一六六五年)に奉行所の高札が立って、耕作希望者は新左衛門と相対契約するようにお触れが出ました。そして新左衛門は樋門のあった場所の下流北岸の堤防の上に、開発の事蹟を記した完成記念碑を建てました。しかしまだまだ樋門の完成に至ってはいなかったのです。