晩年の新左衛門
新左衛門は宝六島新畠(後の砂村新田)、三浦新田(後に内川砂村新田、さらに内川新田)の将来を託す跡継ぎを決める必要がありました。両新田の開拓を推進した新三郎、新四郎は既に結構な歳になっていた上に、新三郎はいずれ大坂に戻って三郎兵衛を継がねばならず、新四郎は既に新田のことに興味が薄れてしまいつつありました。そこで二人の子つまり自分の甥の子たちを養子にすることにしました。そして二人に二代目新三郎、新四郎を名乗らせることにします。そして二人には遺産を等分に継がせることにしました。しかし生前に明確な遺産分けをしなかったために、後のトラブルを生む原因になってしまいます。嫡子がいれば長男に砂村家を継がせておくことでまったく問題なかったのですが、養子の二人(二つの家)に平等に継がせるということは慈愛のようで実は残酷なことだったのかもしれません。「たわけ(戯け)者」という言葉の語源が、「田を分けて複数の子供に相続する馬鹿な奴」という説もあることを思い出します。
寛文年間(一六六一年〜)になると、新左衛門も六十歳代になって、さすがに体力が日に日に衰えていくのでした。そのうち、身内で諍いが起きたり、不埒を起こしたりする者も出てきます。しかし、これらを強く叱責したり、指導したりする体力は既に残っておらず、寝込んでしまうことも多くなっていました。そこで新左衛門は書き手を雇って遺言を書くことにします。それは遺言というより遺訓とも言うべきもので、子孫が守るべきことを連綿と綴ったものでした。これを命日には取り出して皆に読み聞かせるよう書いています。
最初にこれを書いたのは寛文五年(一六六五年)のことで二十一条に亘るもので、さらに翌年には書き足して三十三条にしました。最初の二十一条のそれぞれが結構自分の経験や謂れに触れられていて文章が長いのに対して、書き足したものは短い結論的な言葉が並んでいました。それは、そろそろ最期だと覚悟して、振り絞るように出てきた言葉だったのです。そしてこれが代筆であったこともあって、新左衛門は霊巌寺の大誉上人に添え書きを頼みます。上人はこれを承諾して、「この書は新左衛門の胸のうちを示したものである」旨を遺言の末尾に記して署名捺印しました。
新左衛門は寛文五年(一六六五年)に砂村新田に八幡社を勧請しており、ここは深川八幡の旧地ということで元八幡(現在の富賀岡八幡)と呼ばれました。そして寛文七年(一六六七年)三月、どうしても心残りだった内川新田の樋門の安全を祈願する笠塔婆の石碑を、二つの樋門の間に建てました。ここでも大誉上人に「南無阿弥陀仏」を揮毫してもらい、下段に「八年間に亘る樋門の改良における苦労」「水神への子孫達の安楽を願う祈り」が記されました。つまり水害によって命を落とした人々を慰霊し、今後はそのような災害が起きないように祈念したわけです。
その年には野毛新田(後に勘兵衛が吉田という名字をいただき、吉田新田と呼ばれる)も、内川新田と同様の苦労を経て完成しました。しかし勘兵衛は新左衛門より十歳年下でまだ若かったということもあって、急いで検地を受けるようなことはしませんでした。末期の床にあった新左衛門が現地で野毛新田の完成を確認することは結局ありませんでした。
そしてその年、寛文七年(一六六七年)の暮れも押し迫った十二月十五日、新左衛門は初代および二代目の新三郎、新四郎たちに見届けられる中、砂村新田の屋敷で大往生しました。初代新三郎は既に三郎兵衛を継いで大坂に帰っていましたが、報せを聞いて江戸に来ていました。新左衛門は三郎兵衛に若い二代目の新三郎だけでなく二代目の新四郎の後見役も頼みました。本来は江戸にいる初代新四郎に二代目新四郎の後見を頼むべきだったのですが、このとき既に初代新四郎は諍いの末に家業を離れて他の仕事をしていたので頼むことはできませんでした。
新左衛門の死に伴って砂村新田の名主は二代目新四郎に、内川新田の名主は二代目新三郎に委ねられたのですが、それぞれの土地は新三郎家と新四郎家で共有するという正常とは言えない状況になりました。野毛新田の権利については二代目三郎兵衛が継ぎました。これは新左衛門が内川新田開拓の功労者である初代新三郎に報いた結果でした。
新左衛門は菩提寺であった浅草(新堀端)の善照寺に葬られました。晩年師と仰いでいたのは浄土宗の霊巌寺の大誉上人でしたが、菩提寺はあくまでも真宗の善照寺でした。善照寺の本寺は京都東本願寺別院の浅草本願寺(東門跡と呼ばれた)でしたので、新左衛門は生前浅草本願寺(現在は東本願寺)に砂村新田の一部の土地を寄進していました。また内川新田正業寺の本寺である鎌倉光明寺にも同様の寄進をしていました。正業寺については、内川新田の一部の田を仏供田として別管理し、収穫を寺に納めるよう遺言に書き記していました。新左衛門の一生は悔いのないものでした。自らの強い意思と信仰心を貫いて、色や金に迷うこともなく、その生涯を新田開拓に捧げ、砂村新田と内川新田を子孫に遺すことができたのですから、幸せな一生だと思っていたでしょう。しかし子孫がちゃんと新田を守ってくれるのか、末永く家を継いでくれるのか、一族がずっと仲良くしてくれるのか、一抹の不安を持っていたことは否めませんでした。そして程なくその心配は現実のものになっていきます。